京都府立医科大学

京都府立医科大学 2022年に創立150周年を迎えます。

創⽴150周年記念インタビュー

2021.06.14

リサーチマインドを地域医療へ、現場の感覚を行政へ 

京都府健康福祉部 保健医療対策監中川 正法

プロフィール

1978年、鹿児島大学医学部卒業、鹿児島大学医学部附属病院第三内科で研修。1980 - 1981年、国立療養所南九州病院に勤務(神経内科医)。1982 - 1984年、アメリカ合衆国コロンビア大学医学部神経学教室研究員。1987 - 1990年、国立療養所沖縄病院に勤務(神経内科医)。1993 - 2002年、鹿児島大学医学部附属病院第三内科(講師)。2002年10月- 2013 年 3月、京都府立医科大学大学院医学研究科 神経内科学 教授。2013年4月 - 2020年3月、 京都府立医科大学附属北部医療センター病院長。2013年11月、京都府立医科大学大学院医療フロンティア展開学 教授。2015年4月 - 京都府立医科大学 副学長。2021年4月より現職。

目次
  1. 経歴
  2. 神経内科医として患者の希望となる臨床と研究を
  3. 地域医療の魅力と課題
  4. 京都府庁で医療と行政をつなぐ
  5. よりよい府立医大を目指して

経歴

本日はよろしくお願いいたします。中川先生は現在、京都府庁にお勤めということですが、これまでの先生のご経歴について教えていただけますか。 

生まれは福岡で、高校生までを過ごしました。もともと天文学が好きで高校生のころから屋上で天体観測をしたりしていました。大学では宇宙物理を勉強したいと思って受験しましたが、結局滑り止めで受かった鹿児島大学の医学部に入学しました。入学したてのころは宇宙物理への未練もあって、そのまま医学の道へ進むのをためらった時期もありました。そんなとき、鹿児島大学の第三内科教授になったばかりの井形昭弘先生に連れられて筋ジストロフィーの患者さんがいる病棟を見学する機会があり、神経難病に関心を持つようになりました。井形先生はその後の研修医時代にもお世話になった恩師です。2回生か3回生のときにはもう、将来は神経内科医になって神経難病の研究をすると決めていましたね。

鹿児島大学医学部学生時代に恩師の井形昭弘先生(故人)宅に伺った時.1976年頃.  


初期研修医の時に沖縄から来た男性の担当患者さんがいたのですが、その患者さんは血液中の乳酸ピルビン酸が高値を示していました。ピルビン酸脱水素酵素複合体(PDHC)の異常を疑う報告をしたところ、ある人からこの酵素を生成する実験をしないかと勧められ、研修医2年のうち最後の半年は基礎の実験をしていました。そんなころ、アメリカの有名な神経内科医であるローランド先生が福岡に来られることになって、その場で自分の研究内容を発表してこいと上司から言われました。英語に自信があったわけでもなく、最初はどうしたものかと思いましたが、結果的にその発表でローランド先生に興味を持ってもらい、アメリカのコロンビア大学に研究員として留学することになりました。そこで3年間、筋肉が障害される遺伝子疾患の研究をしました。

1981~1984年 コロンビア大学神経学教室に留学中のときの写真. 左:ニューヨークの地下鉄内.右:Dr. Rowland(主任教授), 妻と長男のスナップ.1984年頃.
  

帰国して国立療養所沖縄病院、鹿児島大学附属病院に勤めたのち、2002年の10月に府立医大の神経内科学教室の教授となりました。2013年に府立与謝の海病院が府立医大附属北部医療センターへ改編されるタイミングで北部医療センターの病院長に就任しました。与謝の海病院はその地域で唯一の病院でした。当時は患者さんは他に病院の選択肢がなく仕方ないので与謝の海病院を受診するという意識が強かったと思います。しかし、僕はそういう地域でこそ信頼される全人的な医療をしたいと考えました。全人的というのは、病気だけではなく患者さんの生活と家族のことまでトータルで考えて医療にあたるということです。僕の就任当時、病院を出たところに葬儀屋さんの看板が立っていて、これはダメだと思いました。初めにやったのはそれを撤去してもらうことでした。北部医療センターでは病院長として8年間勤務した後に定年退職しました。その後、京都府の保健医療対策監になったのは、大学と府の橋渡しになれればいいかなと思ってのことです。

医局員とのお花見

神経内科医として患者の希望となる臨床と研究を

難病の患者さんに出会ったことが神経内科医となられたきっかけだったのですね。研究に対する思いを教えていただけますか?

学生だったころ、ある人から医者には2種類いると言われました。それは、治る病気を徹底的に治す医者と、今は治らない病気を治せるようにする医者です。僕は後者になりたいと思った。

神経内科は研究の進歩が難病患者さんのためになることを特に実感しやすい診療科です。たとえば脊髄性筋萎縮症の1型は自力で呼吸ができず、生まれた時から気管切開が必要となる極めて重篤な疾患です。この病気に対する新しい薬が3年前にできて、以前は歩くことのできなかった子が治療によって歩けるようになりました。先日さらに新しい薬が登場し、一生に一回だけ投薬すれば生涯効果が続くという画期的な治療ができるようになりました。ただ、薬価がまだ非常に高いのが課題です。

臨床での経験で、研究するきっかけやモチベーションとなったものがあれば教えてください。

九州と沖縄の国立療養所に勤めましたが、そこで担当した筋ジストロフィーの子どもたちから色紙をもらいました。患者さんから期待を託され、それに応えたい思いが強くなりました。医師になっても医学部に入学したころの初心を忘れないことが大事で、自分の場合は「難病を治したい」とずっと思っていました。熱い心と冷静な頭脳という言葉があるように、志を実現しようと思ったら熱意だけではダメで、考える時は冷静である必要があります。

国立療養所沖縄病院筋ジストロフィーの子供たち, 養護学校の先生たちとのスナップ.1990年6月.


具体的な疾患について言えば筋ジストロフィーは、ジストロフィンという遺伝子が見つかって大きく治療が進歩しました。重症のデュシェンヌ型筋ジストロフィーのうち、一部は軽症のベッカー型筋ジストロフィーと同程度の症状にまで軽減することができるようになってきました。私のライフワークとなったシャルコー・マリー・トゥース病は、沖縄で患者さんに会ったときまだ研究が始まったばかりでしたが、今はなんとか確定診断までつけられるようになりました。でも患者さんが期待しているのは治療法なので、若い人たちにはこれまでの成果を土台として、治療法の開発を目指してほしいです。

留学先のコロンビア大学はミトコンドリア病の研究で世界のトップを走っていました。そこでの経験を生かして帰国後も最先端の研究をやっていたのですが、そんなとき沖縄に行ってほしいと教授から言われました。いわゆる医局の出張人事です。その話に迷わず「はい」と答え、沖縄で臨床のかたわら研究をするようになりましたが、沖縄で出会った患者さんから新しい病気を発見しました(HMSN-Pという疾患です)。

地域医療の魅力と課題

京都の北部で8年間、北部医療センター病院長として働かれたということですが、地域医療にはどんな魅力があると思われますか?

それ以前も難病診療で地域のフィールドに出ていたので地域医療は馴染みのある分野でした。自分に会うのを楽しみにきてくれる患者さんがいることが嬉しく、やはり自分は診療が好きなのだと改めて思いました。でも、病院長になってすぐの時期に患者さんから態度が偉そうだと指摘されたこともありました。長く大学で教授をしていて、いつの間にか「上からの目線」になっていたのかもしれません。それ以後、患者さんと同じ目線で話すように心がけました。

北部医療センター. 建物はやや老朽化していますが, 医療人としての心構えは常に新鮮です. 令和2年「がん診療棟」が完成しました.


あの先生に看取ってほしいと言われる医師になりたいです。患者さんとの適切な関係を作りやすいのが地域医療。患者さん一人一人が思う理想の最後のあり方に寄り添うのがあるべき姿だと思います。大学病院ではどこかよそ行きな患者さんも、地域の病院では率直に心の内を明かしてくれることが多いです。

臨床をやっているとき何より大事なのが患者さんをよく診ること。普通と何かが違うと感じることがあるかもしれません。そういう時に身体所見をしっかりと記載し、同じような患者さんを診たときに共通点を探し出す。なるべく患者さんのことを覚える。特徴を抽出し、後々まで記憶しておく。そういうことが発見につながります。実は、神経内科医の視点から言うと、難病は地域に隠れていると言えます。学生のころ神経内科の先生の在宅訪問診療に同行する機会が年1,2回ありましたが、集落の中で似たような患者さんが複数おられて、実は遺伝子疾患だったという場合がときどきあります。このように現在は見つかっていない病気が地域に潜在しているということはまだまだたくさんあると思います。

患者数が少ないから治療法が見つからないかというと、そんなことはないです。珍しい症例に向き合うなかで一点突破・全面展開できることがあります。デュシェンヌ型筋ジストロフィーが見つかったのは、ある研究者が「この患者さんには大きな遺伝子異常があるはずだ」という発想をしたから。それでジストロフィンという遺伝子が見つかりました。当時その特徴的なデュシェンヌ型筋ジストロフィーの患者さんは二人しかいなかった。稀な患者の中に普遍性を見つけ出すことが大事です。リサーチマインドを持った人が地域に行く。医師として研究者として何かを見つけようという意識を持って地域医療に携わると、まだまだたくさんのことがわかってくると思います。

地域医療にこそリサーチマインドが重要だというお話は新鮮でした。ところで全国的に地域医療に携わる医師が足りていないと言われていますが、北部医療センタ―ではどのような状況ですか。

府立与謝の海病院から府立医大の附属病院となったこともあって、北部医療センターでは医師数も研修医数も増えました。ただ、他の地域では本来必要な診療科が揃っていない病院、総合診療科医が不足している病院もあります。地域にはジェネラルな診療ができる医師が増えてほしいです。

新専門医制度で地域医療に従事する医師を増やそうという動きもあります。

いろんな考えがありますが、僕は専門医制度で地域医療の医師数を確保すること自体には賛同できません。難しい症例は若い時に大学病院で経験して勉強し、一人前になってから地域に来てほしい。専門医を取得し、ある程度経験を積んだ後、たとえば40-50代で地域に行きたいと思ってもらえるようにするのが大事です。府立医大では社会人大学院を開設し、京都北部地域の病院で勤務しながら、学位が取得できる制度も整えています。

若い医療者には、キャリアの中で一定の期間は地域に行くことを積極的に考えてほしい。たとえば50~60代で10年間は地域医療をするとか。学生時代からの目的意識も大切だと思います。どんな医師になりたいかよく考えることです。

京都府庁で医療と行政をつなぐ

医療現場を離れ、これからは医療の配分という立場でのお仕事ですが、具体的にどのようなことをされているのですか?

今はとにかく新型コロナウイルス感染症への対応が忙しいです。病床が足りない。個々の病院の状況があって病床の増設は簡単ではないですが、新型コロナ感染症対応病床はかなり増えてきました。医師だけでなく、患者さんのケアをする看護師も大変です。一般診療への影響をできる限り避けながらCOVID-19対応を続けていくことが重要です。新型コロナウイルス入院医療コントロールセンター長として、日々、新型コロナ陽性患者さんの入院調整に取り組んでいます。

これまで臨床医や研究医として活躍されてきたのが今度は公衆衛生に関わる仕事に就かれたわけですが、医師として行政からどんな役割が求められていると感じますか?

医療現場の実情をきちんと行政に反映するのが自分の仕事です。行政に携わる人たちは実際に患者を診察したり、現場の実情を見ているわけではありません。COVID-19のことでも、患者が発熱して苦しいという状況を現場で見た経験のない人がイメージするのは正直難しいです。血中酸素飽和度の下がり具合を見ながら入院の判断をしないといけない現場でどんなことが問題になっているか、それを行政の立場からどう解決できるかは、やはり臨床現場を知っている医師にしか分かりません。そういう医療の現場感覚を行政に反映したいというのが僕の思いです。それから、京都府と府立医大のつなぎ役をしたい。

つなぎ役と言うと具体的にどういったことでしょうか?

たとえば府立医大の病棟が古くなってきたから建て替えてほしい、と中で働いている医療スタッフは思ったとしても、外から見たらまだ建て替えの必要はないように見えるかもしれません。臨床現場の認識との違いを解消していきたいと思っています。府立医大の医療スタッフの側にしても、行政のことをある程度知ってほしいと思います。医療者と京都府の双方にお互いの情報を伝えて、風通しをよくしていきたいです。

よりよい府立医大を目指して

最後に学生へのメッセージをお願いします。

府立医大は1872年開設の療病院から始まって、日本でも最も歴史ある大学の一つです。臨床に根付いた研究が盛んで、公的研究費も多く獲得できています。優秀な入学者を集めることもできている。唯一の欠点は何となく身内で固まっているところだと思います。他学出身の教授も増えてきましたがより広く視野を持って井の中の蛙にならないよう、志を高く持ってほしい。150周年を機に、世界に知られる大学として海外との交流も盛んになってほしい。

神経内科の教授をしていたころ学生に言っていたのは、ただ医者になるだけでなくその分野のリーダーになってほしいということでした。社会に出た後も集団の中でリーダーとなれるよう、学生のうちから勉学に留まらず遊びも含めた様々な経験をし、自分を磨いていってください。

本日は貴重なお話と、最後には熱いメッセージをありがとうございました!

脳神経内科水野教授就任祝賀会. 左から中川・中島名誉教授・水野教授ご夫妻.

取材・文:長山透流(医4)

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