京都府立医科大学

京都府立医科大学 2022年に創立150周年を迎えます。

創⽴150周年記念インタビュー

2021.03.24

医学に対する思い 学生時代にいろいろチャレンジを

統合生理学 教授八木田 和弘

プロフィール

京都府立医科大学統合生理学教室教授。 京都府立医科大学卒業後、同大学第3内科にて研修。京都府立医科大学大学院修了。神戸大学医学部第2解剖助手および講師、名古屋大学理学部COE助教授、大阪大学大学院医学系研究科 神経細胞生物学准教授を経て、現職に至る。趣味は茶道。

目次
  1. 自己紹介
  2. 自分を試すための臨床留学
  3. 教育の精神
  4. 基礎研究への挑戦
  5. これからの府立医大について
  6. 学生へのメッセージ

自己紹介

自己紹介をお願いします。

学生の皆さんは私とは違う人格ですし、時代も違います。しかし、もしかすると何か普遍的な意義を私の話の中に見つけてもらえるかもしれません。あるいは、何の役にも立たないかもしれませんが、せっかくの依頼ということで、お話しさせていただきます。

私は父の影響もあり、幼い頃から臨床と研究の両方に携わるいわゆるPhysician Scientistになりたいと考えるようになりました。「書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」「病気を治しても、患者を社会的に殺しては意味がない」といった言葉は、中学生くらいのときに何気ない会話の中で父から教わったものです。いずれも冲中重雄先生という半世紀以上前に東大の内科教授だった先生の言葉だと、かなり後になって知りましたが、不思議と私の心に引っかかり続けていました。父は内科医ですが四国の大学病院で長く臨床と研究に携わっていた人で、私もできればこういう医師であり医学研究者になりたいと思ったのです。

学生時代には2回生の時から第2解剖の井端泰彦教授(当時)にお願いし、研究室に入って研究の見習いみたいなことを始めました。当時、府立医大には学生時代に研究をしている人はほとんどおらず、例外中の例外でした。6年生の秋までの5年半で、国際学会発表や論文執筆などの研究活動、そしてYale大学とColumbia大学に二度の臨床留学と、当時としては全国的に見ても最高レベルの医学教育を府立医大で受けることができたと思っています。


ただ、私は真面目な優等生的な人間ではなく、意味不明なことを我慢してこなすことが苦手でした。しかも、教養課程の時は初心を忘れていましたね。しかし、2回生の時に父が突然の病で倒れ、将来のことや自分の人生のことを深く考えるようになりました。専門課程に入ると、もともと適性があったのか、医学の勉強が楽しく成績もどんどん上がって行きました。しかし、生活の中心は研究で、朝はまず研究室に行って、実習だけ出席してきぱきとこなして研究室に戻り、夜遅くまで実験を続ける、という学生生活でした。熱心に実験するのを見て、井端先生や当時助教授だった岡村先生から学会発表や論文になるようなテーマをもらうこともでき、最終的に英文論文1編、国際学会発表2回、国内学会発表3回、という形になる成果を上げることができました。論文や学会発表が目的で始めたわけではありませんが、自分が研究したことが形となって科学の世界に残ることの素晴らしさに大きな魅力を感じ、「研究者、悪くない!」と思うことができました。

ただ、実験と勉強しかしていなかったわけではなく、トリアス祭では「ダンスパーティー部門」というかなりナンパな部門で1回生から5回生まで勤め上げ、5回生の時には部門長までやってしまっていました。数年前、ある学生が当時のトリアス祭パンフレットを発掘してしまい、「これ、先生ですよね?」とニヤニヤしながら見せに来ました。かなり恥ずかしかったですね。とにかく、硬軟取り混ぜていろいろありましたが、府立医大での学生生活は最終的には本当に実り多く楽しいものなりました。本当に多くの方々のおかげです。

6年生になり、進路について考えたり様々な先生方の話を聞いたりする中で、後悔のない人生を送るためにやれるところまでやってみよう、それも、学内にとどまらずに視野を広げて国際的なフィールドで基礎研究を究めようと決めました。

大学時代に様々な経験をされる中で、真摯にあるべき姿を考え、逆境をチャンスに変えられた姿勢に八木田先生の医学に対する熱い思いを感じました。そのような姿勢は、どんな進路を選ぶ人にも自分の人生を生きる上で普遍的に必要なものですね。

コロンビア大学での臨床実習留学でニューヨークに1ヶ月滞在。
ニューヨークの街角に佇む6回生の時の私。

自分を試すための臨床留学

学生時代は学部5回生と6回生でそれぞれ1か月間のアメリカ臨床留学を経験しました。今は基礎研究者となりましたが、もともと内科医として臨床科で研究することに興味があったので、臨床の世界で自分の力を試したいと思っていました。
初めての臨床留学先であったYale大学での体験はとてもきつかったです。あとになってYale大学は米国でも有名な厳しい校風だと知ったのですが。まず、アメリカ東部のドクターは話すのが速い。何か尋ねられても、レスポンスが遅れると待ってはくれずに切り捨てられるんです。ある時、見学をしていると、チーフレジデントに「私の言っていることの何%を理解しているのか」と尋ねられたことがありました。私は「60%くらい」と答えたのですが、「向こうのカウンターに置いてある○○という本の何の項目の何ページを読んでこい」、とテストされたんです。それで読んでいると、やってきて「一応わかってるみたいね」とか言ってくる。私だけでなく、学生もレジデントもみなさん常に非常に厳しく評価される、その緊張感を肌身で感じ、日本の医学部との違いに驚きました。「えらいところに来てしまった」と思う一方で、自分はこんなものじゃない、もっと互角に戦えるはずだという思いもあり、Yale大学での留学は正直不完全燃焼でした。それで翌年、6年生の時にコロンビア大学に紹介状を書いてもらい、英語や医学知識を鍛えたうえで、臨床実習させてもらいました。そうやって臨んだコロンビア留学は最高に楽しかったです。Yaleでの悔いが残る実習のリベンジとして、相当な覚悟で行ったことがあったからこそ充実した海外実習ができたのだと思います。自分を奮い立たせるような気持ちで臨んだ、とてもいい思い出です。

高いモチベーションと行動力があってこそ世界のレベルを肌で感じる経験ができたのですね。

2度の留学を経験してみると、アメリカでの評価の厳しさ、英語の能力不足を感じましたし、アジア人への差別もありました。治安の問題もありました。94年~95年当時、日本は経済好況でしたがアメリカは不況で、とくに大学の周りは治安が悪くて大学の敷地外には出られないような殺伐とした環境でした。殺人事件や麻薬中毒者に出くわすことも多く、底がない緊張感の高い社会の怖さを感じました。ホールドアップしろと脅された時のために30ドル(麻薬の相場)を胸ポケットに入れておけ、と教えてもらいました。正直、この環境でやっていくのは難しいと思いました。

納得がいくまで自分を試してみた結果、私は基礎の道を歩むことにしましたが、コロンビア大学で出会ったレジデントとはまだ付き合いがあります。選ばなかった道で出会った人も、その後の人生を豊かにしてくれているんですね。

留学については、今の学生にはビザなどの申請が厳しいので望み通りの留学先に行けるというようにはいかないかもしれないですが、できないことはありません。自分の中で課題があるかどうか、それをやる必然性があるかどうかを考えて決めたらいいと思います。

2018年、マンチェスター大学での招待講演でイギリスを訪れた際に招待してくれた先生が連れて行ってくれた貴族のお城にて。ダウントン・アビーの世界を堪能。

教育の精神

これまで話してきたように、私は当時の医学部生の中では例外的にたくさんの経験を積ませてもらいました。しかし、結果としてそうなっただけで、当時は自分の可能性や適性を試し、どう生きるかを模索することに必死でした。振り返ってみると、自分の悩みもがいてきた軌跡が結果として一本の道になっていた、という感じでしょうか。人によって人生はいろいろですが、私自身の経験の中で、ある決断に至ったモチベーション、判断基準、リスクを取ると決めた理由は普遍的といえます。それを共有することで学生の皆さんに何か学び取ってもらえるものがあるのなら嬉しいです。

私は優等生ではなく、納得したことでないと頑張り続けることができない性格なので、自分が必要と思ったことをとことんやろうと思いました。阪大医学部に行っていた兄や中高の同級生で京大医学部に行っていた篠原先生(現京大教授)をはじめ、京大や阪大の学生の様子を教えてくれる人が身近にいたこともあって、府立医大では一般的でなくても周りは全く気になりませんでした。研究で成功するには才能は必要ですが、天才でなくても研究者として生きていくことができるのは、医学分野の良いところです。誰でもチャレンジする権利はあると思っています。まあ、自分次第ということです。自分の適性を見極め、人生を賭けるに価する仕事を選ぶ。人生は一度きりですから、後悔はしたくない。

府立医大には優しい先生もたくさんいて、井端先生のように「京都のお父さん」と個人的に思っている恩師を得ることができました。また、私にとって大きかったのは、名古屋大学や大阪大学で、恩師や一生のメンターと呼べる先生に出会ったことです。直接の上司でもないのに、なぜか気にかけていろいろ言ってくださる。特に、厳しいけど本当のことを言ってくださる先生は信頼できます。文化功労者の近藤孝男先生(名古屋大学名誉教授)、大阪大学の仲野徹先生など、著名な先生方が応援してくださり励ましてくださったことは、信じられない幸運です。本当に、見ている人は見ている。今でも、そう確信しています。自分も教育者として、学生一人一人のいいところを見つけて、伸ばしてあげたいですね。それが、私を育て導いてくださった方々への恩返しになると信じています。

命に対する愛情、畏敬の念、生きてることに対して畏怖の念を持つことさえできれば、どんな道を選んでもいい医師・医学者、教育者になれると思うんです。医学部は、そういう意味で本来は非常に間口の広い学部です。今は勉強ができなくても、いい医者になるかもしれない、だから長い目で見ないといけません。そして自分が成長し変わるためには、努力しなければなりません。

父の恩師である徳島大学名誉教授の三好先生の、そのまた恩師が冲中重雄先生で、東大第三内科で教授を務めた人でした。沖中先生は教育者としても優れた人で、前にも述べたように「書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」とおっしゃっています。「病気を見て人を見ず」というのは医療界でしばしば問題になります。たとえば、疾患を治療してもその人が経済的に破綻してしまうことがある、病気を直して社会的に患者さんを苦しくさせてしまっては元も子もないですよね。冲中先生から何十年を経て伝わる医学の精神が私の中にも生きています。私は基礎研究者ですが、患者さんの幸せ、社会の一人一人の幸せが医学の原点であるというのは臨床から離れた今でも忘れていません。それを伝えたい、そういう教育をしたいと思います。

2019年2月、フロリダでの国際学会にて。原則招待者とその教室員のみが参加できるclosedの学会で、夜に世界のトップ研究者たちと飲み会をしました。日本からは上田泰己先生(東京大学、右から5人目)と私の二人が参加しました。

基礎研究への挑戦

どのような経緯で概日時計を研究テーマに選んだのでしょうか?

学生時代は神経内分泌をテーマに視床下部の形態学的な研究をしていました。概日リズム研究者としての原点となる経験をしたのは京都府立医科大学第三内科で研修医をしていた時のことです。当時の仕事の一つに肝炎の患者にインターフェロンの注射をするというのがありました。インターフェロンを注射すると、その副作用で発熱して患者さんは大変なんです。当時、週に一回パナソニックの健康管理室に外勤に行くことになっていたのですが、あるとき仕事帰りにインターフェロンを注射して帰る一人の患者さんに出会いました。「夕方打つようになってからめちゃ楽なんですわ」と言われ、添付文書を詳しく読み直してみると、副作用にうつ病とか睡眠障害とか概日リズム関連の症状が多い。そこで初めて体内時計が人体で本当に機能していると実感したんです。実は、インターフェロンは視交叉上核の時計遺伝子発現を攪乱することが後に報告され、うつ病や睡眠障害などの副作用は実際に体内時計の撹乱と関連することがわかっています。

結局真実は患者さんの中にあるんですね。患者さんを丁寧に診察するなかで体内時計が治療を左右する効果を生み出しているとわかったのです。体内時計が人間にとって大事な要素だと確信しました。それでサーカディアンリズムを研究することにしたんです。

そのような体験を経て体内時計の研究を始められたのですね。

はい。当時は体内時計研究の黎明期でした。私は大学院入学と同時に、学生時代からお世話になっていた岡村先生が教授として赴任していた神戸大学に国内留学することにしました。私の大学院入学と同時期に哺乳類で時計遺伝子の存在が明らかになり、塩基配列の同定、タンパク質の機能発現、遺伝子クローニングが流行っていました。バブル期のように研究室中が活気にあふれ、言うなれば殺気立っていました。時計遺伝子がクローニングできればNatureに出る、という時代でしたね。しかし、そんな美味しいテーマは大学院生には回ってきません。弱肉強食で、学位は自分の力でなんとかしなければいけない環境でした。皆が群がる流行りのテーマに背を向けるように、自分は培養細胞における時計遺伝子の存在を研究テーマに選びました。当時、体内時計は視交叉上核以外には存在しない、と言われていたが、荒れ地を開拓する気持ちで、誰もやって来なかった培養細胞でやってみようと考えました。当時の私はその手の研究技術は持ち合わせておらず、細胞培養の仕方から教えてもらうところから始めたのですが、ついに培養細胞に体内時計があるということを遺伝学的に証明しScience誌に発表することができました。私たちを含む世界で三つくらいのラボによる一連の研究から、細胞時計という概念を完成させることができ、多分野の人から評価される発見となりました。


細胞時計の発見後、一度留学しようと思っていた矢先、名古屋大学でシアノバクテリアという光合成細菌の研究者である近藤孝男先生が留学するくらいなら名古屋大学に来ませんか、と声をかけてくれました。そして、4年間の任期つきの理学部助教授という形で21世紀COE(center of excellence)プログラムの一環で採用されました。

名大では自分の納得のいく形で力試しをするつもりで一からラボを運営して、結果を出せるかどうか自分の能力を確かめてみようと決めました。研究は一人でできるものではなく、自分の仕事だと思っていても、それは環境や指導者の力によるものである場合も多いのです。ですので、もしだめなら才能がないのでやめようと思っていました。結果的には3年弱で自分でも満足出来るレベルの仕事ができ、その成果はPNAS(Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America)に掲載されました。自分でも結構いい仕事だと思っていましたし、場所が変わっても全くのゼロから出すことができたので、まあやっていけるかな、と思うことができました。

名大を離れた後は、阪大解剖学教室の准教授になりました。阪大解剖学教室ではマクロ解剖を教えながら、解剖室のホルマリン対策の責任者として解剖実習室の設計をするなど研究からは離れて忙しく働いていました。教育の経験を積んで、あとは声がかかったところの教授選にでも出ようかなという感じです。ところが、ある日、仲野徹先生(大阪大学大学院 生命機能研究科・時空生物学 医学系研究科・病理病態学)と岩井一宏先生(現京都大学医学研究科長)のお二人がやってきて、「やぎちゃんな、もう一本いるねん。もう一本オリジナリティーの高い研究の論文が必要なんや。まだこれまでの仕事が八木田の仕事として認知されてないねん。」と説得されました。最初は「自分の何をわかっているのか」と訝しく思っていましたが、業績が徹底的に調べ上げられて、その上で言っていることがわかり、驚きました。同時に、このエライ先生方は評価が厳しいことでも有名でしたので、腹をくくってもう一仕事しようと決めました。そこで、名古屋大学時代から準備していたES細胞を用いた研究を始めました。「アイデアとハートはあるけど、お金がないからここでES細胞の培養させてください」と熱意を伝え、ES細胞の培養方法を竹田潤二教授や堀江准教授(現奈良県立医大教授)に教えていただきながら研究を進めました。結果、細胞分化と体内時計が密接な共役関係にあることを発見することができました。新しい生命現象の発見ですので、一つの分子にこだわった研究とは異なりタコツボ型研究に陥ることもなく、発生学からがん生物学まで非常に大きな展開ができる一つの分野を創出することができました。この研究の成果は結局はPNASに掲載されたのですが、掲載されたジャーナルのレベル以上に内容の評価が非常に高く、仲野先生や岩井先生も「これでええねん。これでScienceの仕事から一連のものがすべて八木田くんのものやと誰もが納得する。これでええねん。」と言ってくださいました。これには、本当に感動しました。結局は母校に帰ってくることになりましたが、阪大ではこのようなアドバイスをくださるメンターの重要性を身に染みて感じるありがたい経験でした。

フロリダでの学会にて、シンポジウムでの30分の発表が終わった後。
緊張感を乗り越え、プールサイドのデッキチェアで開放感に浸る。

これからの府立医大について

府立医大の教育や文化についてどうお考えですか。

学生と教員の距離が近く、学生のレベルが高いのがいいところですね。学力だけでなく人間性とのバランスが大事だと思います。府立医大の教職員は面倒見がよく、自分はその優しい校風に救われることが多かった。伝統的にそういう大学なんだと思います。

学生へのメッセージ

最後に、学生にメッセージをお願いします。

自分らしく生きていくのは難しいけれど、自分の人生を生きてほしい。幸せの形は人によって違うので、人と比べて幸福かどうかではなく、自分にとって何が幸せかを考えてほしい。そして、自分を尊重するのと同じくらい他の人も尊重することも忘れないでください。

失敗したり恥をかくのを怖れずチャレンジしてほしい。それは人生を生きていく上で必要なコスト、いわば住民税みたいなものですから(笑)。そして、大学の中にとどまらず外の世界に出てできるだけ多くの人と知り合ってほしい、世界の全体像を知ってほしいと思います

自分で考えて挑戦し、幸せを追求することが大切なのですね。全体を通して、八木田先生が大切にされている医学への思いと人を平等に尊重する姿勢が伝わってくるインタビューでした。お忙しい中ご協力いただき、ありがとうございました!

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