先の見えない浪人時代と自由に過ごした大学時代
本日はよろしくお願いいたします。初めに、先生が医師を目指された経緯などをお聞かせください。
高校2年のとき、父が胃癌の闘病生活を送っていました。父はきつい抗がん剤治療と骨転移の痛みに苦しんでいたのですが、病院の詰め所を通りかかった時、父について医師や看護師が話す言葉が聞こえてしまいました。「あの82号室のクランケはもうすぐ死ぬのにうるさいやつだ」と。僕はこの言葉が忘れられず、「患者さんの痛みがわかる医師になる」と決意しました。
高校の先生には「こんな成績で医学部なんかいけるわけないやないか」と言われたけれど、「2年浪人して頑張ればいけるんちゃうか」とも言われ、その言葉を真に受けて猛勉強を始めました。2年間で苦手な数学が得意科目となり、模試で全国2位と良い成績を収めましたが、人生は思うようにはいかないもので、第一志望の阪大になかなか合格できませんでした。いつの間にか4浪になり、府立医大に合格した時は本当に嬉しかったです。
入学後も優等生ではなかったですね。麻雀、バスケ、アルバイトばかりの生活でした。バイト先の塾が倒産したあとは「服部塾」を始めて生徒を引き取りました。やはり4年間の受験の経験は受験指導でこそ活きるもので、人気の先生でしたよ。あるときバスケの練習中に膝を怪我をして、スポーツ医師からもう激しいスポーツはできないと宣告を受けました。僕からスポーツを取り上げるなんて頭をバットでぶたれたような感じでしたが、そんな時に友人に誘われ、ウインドサーフィンを始めました。風の吹く日も吹かない日も琵琶湖に行き、冬の風が吹く中で、サーフィンショップのオーナーが静岡は温かいと言うのでついていきました。外海は相当荒れていましたが、浜名湖でやってみたらなんと足がつく。そんなわけで、高学年になっても春夏は琵琶湖に若狭湾、秋冬は浜名湖と忙しく、試験でヤマが外れると全く答案が書けません。白紙で出すのは悔しいので勉強したことをとことん書き綴り、運まかせでしたが、おまけで通してもらいました。
ハワイマウイ島のビーチにてウィンドサーフィンをした際の記念写真。
木下教授との出会いで眼科医に
卒業後、眼科医の道を選ばれたのは何故でしょうか。
6回生の時に珍しく大学に顔を出してみると、「はっちゃん、久々やん!昨日の脳外科のしゃぶしゃぶめっちゃ美味しかったで!」と友達が話しかけてきました。当時大学の様々な教室が将来入局する学生を集めるための医局説明会を行っていたのです。「今日は何かおいしいのがあるんか?」と聞いたら、「眼科の焼肉ですわ」と教えてくれました。そんなわけで焼肉を食い逃げするつもりで眼科の説明会に参加したのが、当時阪大から京都府立医大の眼科学教室の教授になられたばかりの木下茂教授との出会いでした。髪の毛の長い面白い先生から「君、あまり見かけへんけど名前なんていうんや」と話しかけられました。講義に出ていなかったので、初めて木下教授に話しかけていただいた時には僕はその人が教授であることも知らなかったのです。「眼科どう思う?」と聞かれ、僕は「実は顕微鏡などを使う細かいことが苦手で、一番行きたくない科なんです。今日は精力をつけるために焼肉を食べに来ました」と正直に答えました。
当時の僕は父の命を奪った胃癌のスペシャリストになって多くの人を助けたいと考えていました。ところがその説明会の1ヶ月後、木下教授から突然、下宿に電話がかかってきて、「服部君、ビールでも一緒に飲まへんか」と誘われ、教授室で腹を割って話す機会をいただきました。「僕は4浪して1留もして、学校も来てへんし、変わり者ですよ」と言ったのですが、木下教授は「その変わってるところがいいんや。ぜひとも君が眼科に来てここを変えてくれ」と、僕の普通と違う所を買って下さったのです。僕はそんな木下教授の魅力に惚れてしまって、科に関係なく、この先生に自分の人生を賭けてついていきたいと思いました。それほど、木下教授は心が広くとても素晴らしい先生でした。
先生は網膜硝子体手術の分野で日本トップレベルの技術をお持ちですが、それまでにはどのようなご経験をされているのでしょうか。
僕は一度分野を決めたからには、その分野では誰にも負けない気持ちで頑張りたい、といつも考えていました。眼科の医局に入った後、木下教授は僕に「眼科で一番難しい、タフな分野である網膜をやれ」と言われましたので、僕は網膜の手術では誰にも負けないくらいの腕になるまで修行すると腹をくくりました。3年目には木下教授の恩師が院長をされている阪大の関連病院に府立医大からただ1人派遣され、そこで真野先生という人徳のある先生に出会いました。その病院では、「患者さんを自分の親だと思って治療することが大切や!」「目だけ見てたらあかんで!ちゃんと人として診ないとあかん」など、医療の原点をたたきこまれました。自分の親だと思って治療すれば、自分が執刀中に患者さんに何か難しいことが起こるとすぐに指導医に応援をおねがいするようになります。そして無事に手術が終了して、自分が何が悪かったのかをノートに書きこむ。これは僕が今若手を指導する時にも大事にしていることで、何かが起こる前にSOSを出す医師は、何かが起こってからSOSを出す医師よりも、成長します。前者のような医師は、指導医がどのようにその難しい状況を切り抜けるかを見て学ぶことができるからです。後からSOSを出す医師は、患者さんを自分の技術アップのたたき台だと思っているので、いつも同じ失敗を繰り返します。
卒業後5年目に熊本の病院で働いている時、網膜硝子体手術の件数で九州最多を誇る聖マリア病院の大塩善幸先生から声をかけられ、そちらに移ることになりました。大塩先生は「どんどん任せるので、はっちゃんよろしくね」とおっしゃって、福岡大の関連病院であったにも関わらず、わざわざ福岡大学に交渉し僕のために籍を作ってくださり、多くの手術を任せて下さいました。九州は実力がものをいうところで、大学でのポジションなど全く関係なく意見が自由に言えました。開業している先生に網膜硝子体手術を教えることもあります。すると、今度はその先生から白内障の手術を頼まれ、信頼関係からオファーは増えていき、僕は水を得た魚のように多数の手術をこなしていました。夢のようなひと時でした。大塩善幸先生からも「来年から部長はまかせるからな」と言われるほど期待され、活き活きとした生活を送っていました。
しかし、半年もせずして木下教授から全く予期せぬオファーがあり、そのオファーを2度断ると「人は粋に感じないとあかん。そうやないとお前とは縁を切る」と言われてしまいました。眼科医になったのも木下教授のおかげで、木下教授に縁を切られたら眼科医になった意味がなくなります。3度目は断ることができず、浜松の海谷眼科に就職することになりました。大塩先生には土下座をして謝りましたが「お前にはとても期待をしていたのに」とお叱りを受けました。大塩先生は涙を流されていて、愛情のこもった怒りでした。
浜松では1年半メスに触れず耐えがたい日々が続きましたが、これも試練。木下教授から紹介されたからには、絶対に泣きは入れないと決心し、自らの考え方を変え、外来で一番慕われる医師になろうと思い頑張っていると、ある時、偶然に執刀の機会がやってきました。その日を境に、海谷忠良院長から少しずつ網膜硝子体手術を任されるようになり、2年目には「服部、お前が先に上がって始めていろ」と言ってもらえるほど信頼されるようになりました。海谷院長はそれまで30年以上絶対に他人にメスを渡すことがなかったそうで、周りのスタッフに驚かれました。私も海谷院長を尊敬していましたので、手術終了間際になると隣の手術室で手術をしている院長に「ほぼ終わりました。最終確認をお願いします」と声をかけていました。院長は患者さんの近くへ行き、「〇〇さん、順調ですからね」と労いのお声掛けをされ、それで手術を終了していました。3年目になるともうそれもなくなりました。
信じてやり抜く心を持って海を越えベトナムへ
浜松でやりがいも収入もあるお仕事をされていた中、なぜベトナムへ渡られたのでしょうか。
府立医大が主催する眼科学会が京都の国際会館にて開催され、その学会でベトナム人医師に「ベトナムでは多くの人が失明している」「是非ともベトナムに来て患者を救って欲しい」と頼まれたことがきっかけでした。当時僕は浜松で、それまでの苦労の甲斐あって、休みの日にはウインドサーフィンができるような、何不自由ない生活を送っていましたが、「もっと僕を必要としているところがあり、僕が行けば多くの人が救えるんだ」と半年間悩みました。家族は大反対だったため、最初は3ヶ月だけということで許しを得ました。ところが3ヶ月治療し続けても、まだまだ治療しないといけない患者さんがたくさん残っていました。このまま自分が帰ってしまうと患者さんたちはずっと失明したままになってしまう、と後ろ髪を引かれる思いでした。木下教授は3ヶ月経って日本に戻ったらいい病院を紹介すると言って下さっていましたが、患者さんのことを考えると、まだまだやり残したことがあり、技術も伝えきれていない。もう少しベトナムにいさせて下さい、そう頼んでベトナムに残りました。ベトナムでの活動は、道のないところに道を作るようなものでした。コミュニケーションがうまく取れないことで誤解されたり、文化風習の違いなどで誤解をされたりと、失敗や挫折の繰り返しでした。それでもやりがいがあったので続けたいと思いました。
ベトナムでは治療費を払えない患者さんに対してもボランティアで手術をされていたそうですが、その資金はどのようにやりくりされていたのでしょうか。
活動当初は貯金を切り崩しながらやっていましたがそれも底をつき、手術のアルバイトを探していました。しかし、「どこの馬の骨かわからない者に手術はさせるわけにはいかない」、「大学からの推薦状はあるのか」とハードルが高く、コンタクトレンズ販売店の横にある、クリニックでのアルバイトが主でした(このようなアルバイトは当時は眼科研修医がするものでした)。しかし、がむしゃらに活動を続けているうちに、JALの機内雑誌『AGORA』や『情熱大陸』で取り上げられました。それをきっかけに、当時福島県で眼科医会の会長をしている今泉信一郎院長から「ぜひうちの病院にきて手術をして欲しい」という問い合わせがありました。そんな縁がいくつかでき、やっと僕自身の技術を生かせる手術の仕事によって収入を安定させることができるようになりました。
そして、生活費と現地での活動費用を稼ぐために、1ヶ月のうち2週間は日本で、北は岩手、南は鹿児島までの様々な病院で手術をし、残り2週間はベトナムに渡ってボランティアをするという生活が始まりました。ある時、奈良にお住まいの方が、「先生の番組を見て感動しました。もう私の命は長くなく、子供もいませんので、預貯金の5千万円をどうか先生の健康と長く活動ができるように使ってください」と言って寄付をしてくださいました。感謝の気持ちで一杯で、泣きながら受け取りました。それから10年後に、僕の活動をとりあげたラジオ番組を聞いていた目の不自由な資産家の方が、僕の支援団体であるアジア失明予防の会に、ぽんと1億円寄付して下さるということもありました。このような方々をエンジェルと呼ぶのですが、不思議なことに、僕たちが困った時にエンジェルが現れるんです。
多くの方々が私の活動に賛同し、浄財を寄付して下さるようになりました。もし僕がお金儲けをしたいのなら、この活動をやめれば、いくらでもお金が貯まります。だってボランティアで手術をすればするほどお金が出ていきますから。以前は3年ごとに新車が出れば買い換えていましたが、今では車は動けばいいという考えになり、最新式の車など買うお金があれば、もったいないと思うようになりました。そうしたお金はすべて、貧しい人たちの手術費用に使ってしまい、車は未だに24年前の1997年式(26万キロ)のカムリグラッシアに乗っています。
『カンブリア宮殿』(テレビ東京の番組)に出演した際の取材写真。
日本の外で働くにあたって特に大切にされたことはありますか。
海外のように自分にとってアウェイでやっていくということは本当に大変なことです。コミュニケーションが取れず困ることも多々ありました。目の前の問題を解決するために、紙に書いたりジェスチャーをしたり、とにかく相手に今何をしてほしいのか伝える方法を考えました。
大事なことは、指導医として来た僕が偉いのではなく、「人と人は対等である」という考え方です。自分(日本)が優れているという意識やプライドは、邪魔になります。振り返ってみれば阪大にこだわって4浪したことも、プライドが邪魔をしました。大事なのは目の前の問題をいかに解決するかということです。自分のポジションにこだわるより協力し合いながら道を探すほうがいい。だから僕は、ベトナムで日本と違うところがあっても、「日本だったらこうやるのに」と思うのではなく、僕がベトナムの文化や風習に慣れることが大切であると考え、ベトナム語を覚えたり、ベトナムのやり方などを学んだりしました。そうするうちに、僕自身が周りに徐々に受け入れられるようになりました。
ベトナムでのボランティア手術の様子。
郷に入っては郷に従えということですね。先生自身が受け入れてもらえたと感じたのはどんなところでしょうか。
例えば、患者さんや治療に対する僕の信念です。初めの頃は「2PM、2PM(手術開始時刻)」と叫んでも、誰も動く人はいない。国立病院なのでのんびり仕事をするのが通常でした。そして勤務時間を過ぎると帰ってしまうスタッフがいて手術のキャンセルは当たり前でした。手術をするためには手術室のスタッフの協力が必要ですが、早く始めれば自分一人でも多くの人の手術ができます。そこで、僕は他のスタッフが昼寝をしている横で、コメディカルのやる仕事や看護師のする仕事などをしていました。貧富の差を考えず、全ての患者さんを平等に手術するために、僕は手術機器や顕微鏡の電源をコンセントにつなぎ、手術器具の準備など手術の準備を行い、患者さんを手術室に呼び入れ、麻酔や滅菌手術器具の準備も全部自分でやり、一人で手術を始めていました。そんな日々が続くと、いぶかしげに見ていた手術室のスタッフのうち、「ドクターハットリは本当にベトナムの人達を救おうとしている」と感じた人から行動が変わっていきました。一人、また一人と、手術の準備や患者さんの呼びいれなどに協力してくれるスタッフが増えていきました。外来の診察を飛び込みで頼まれ、僕の方が手術室に行くのが少し遅れると、「ドクターハットリ、遅いじゃないか」と言われるほどまでになりました。人を変えるのは言葉ではなくて自らの行動あるのみです。そしてぶれない信念。
ベトナムでの手術は日本以上に難しかったと思いますが、どのように集中力を保たれたのでしょうか。
ベトナムでは難易度の高い手術が多く、その中でも特に難しいものが僕に回ってきました。日本から来たというだけで期待も大きく、かつ何かあればすぐ批判の対象となります。そのような中で手術を成功させないといけないわけですが、自分で自分にプレッシャーをかけることも大事で、「患者を自分の家族と思え」と言われた時から、僕はこれを習慣にしてきました。僕はスーパーマンではないから、全ての人を救うことはできませんが、僕がギブアップしたら患者さんは失明してしまう。自分が頑張れば何とかなるかもしれない、だから決して諦めず、患者さんにとって一番いい治療を続ける。
集中力というのは、僕がこれまで一生懸命やってきたという背景、患者さんに対する考え方や気持ち、そして周りから求められるという環境の三つから成り立っていると思います。周りに求められると応え続け、応え続けるから何年経ってもベトナムに来て下さい、と求められ続けるわけです。
そんな先生のご活動は日本でも賞賛され、天皇陛下に謁見されたこともあるそうですね。その時のお話を聞かせていただけますか。
2018年、当時の天皇皇后両陛下(現上皇)がベトナムのQuang国家主席を宮中晩餐会にご招待された際、晩餐会後に春秋の間にて、僕自身も両陛下にご拝謁いたしました。「以前(2013年の晩餐会、2017年のご訪越時)にもお会いしましたので先生の活動のことはよく存じています。なかなかできることではないのに、よく頑張っておられて、同じ日本人として誇りに思います」とのお言葉をいただき、目頭が熱くなってしまいました。皇后陛下は白い柔らかいお手で私の手を握られ、「先生のされていることはなかなかできることではありませんわ。とても素晴らしいことをなさっておられるわ」と、涙をお流しになられました。普通の仕事をしていれば絶対にご接見をすることのないお方である両陛下から賜りましたお言葉とその時の光景を、僕は忘れることができません。
それより前の2009年2月には、徳仁皇太子殿下(今の天皇陛下)ご訪越のお際にお招きいただきました。「万難を排してお伺いいたします」と答えましたが、日本での7か所の病院での手術の仕事がありましたので、一旦帰国し休みなしで働き、再びベトナムに戻ることとなりました。当日の会場はテーブルが分かれていて、皇太子殿下はこちらのテーブルに来られると、まっさきに僕にお話しかけくださいました。
「ここには、バイクでこられましたか?」
「はい、直前まで手術をしていて、ひょっとするとこの会に間に合わないかと思っていました」
「すごい熱意でベトナムの人々を救っているのですね。友人から渡された『はっちゃんベトナムに行く』を読みました。本には「仁愛」というサインがありましたね。「仁」という字が私の名前にありますのですごく親しみを感じましたし、情熱大陸のDVDも観させていただき、とても感動いたしました。是非とも服部先生に直接お会いしたいと思っていました」
僕は手が厚いのですが、殿下も厚いお手で握ってくださり、僕がずっと握っていると悪いと思って放そうとすると、ぐっと殿下が握り返されまして、僕の活動が日越の友好を懸け橋となっているとの大変な称賛をいただきました。その後、2015年にヘルシー・ソサイエティー賞を受賞した時にも東宮御所に招いていただきました。
ご称讃のお言葉をいただき、皇室の方も僕の活動を応援して下さっていると思うと再び興奮する気持ちとともに「もっと頑張らないと」と気が引き締まりました。
ベトナム政府から外国人に贈られる最高位の友好勲章を授与され、スピーチを行う。
日越議員連盟の総会で講演をした時の様子。 左:岸田総理(当時:事務局長)
右:武部日越議員連盟名誉会長(当時:自民党幹事長)
若い人たちへ
なぜ先生はご自身を犠牲にされてでも活動できるのでしょうか。
患者を助けることで僕も救われます。僕の価値観では、家は住めれば良く、車は動けば良い。この仕事はお金儲けに走ろうと思ったらいくらでも走ることができます。けれども僕は、患者さんを救う機会を与えてもらったために、幸せに共感できる貴重な機会を得ました。海外で働くときの心がけでも話しましたが、人と人は対等です。「目の前に困っている人がいたら、遠慮なく人を助ける」自らお金を出してでも、それが自然にできるようになったことは僕の心の宝です。
ベトナムでは若手医師の育成もしています。何かが起こる前にSOSを出すようにというのは同じですが、もう一つ彼らと約束していたのは、「僕の技術は全て君たちに惜しみなく教える。だからそれを必ず次の世代につないで欲しい」ということです。やはり発展途上国では技術はそのままお金に結びつくので、残念なことですが、お金儲けに走る医師もかなりいました。しかし20人程教えた中で、2、3人程、僕のDNAを受け継いでくれた医師がいます。すなわち後進の医師を指導するとともに、お金のない人に対しても自分のポケットからお金を出してでも治療し、患者さんに喜んでもらうことで幸せを感じるようになってくれました。
ボランティア活動に、日本人の若者が同行することもあるそうですね。
全国各地の大学から学生が来てくれていて、山口大学などは国際医療研究会が主体となり、毎年3〜4名の学生が来ます。私の母校の四条畷高校からも生徒が来るようになりました。人数には限りがありますので、高校の方で面接などを行います。精鋭たちが来ているだけあって、初めは突っ立っているだけでも、「医師でなくてもできることはたくさんあるやろ。自分で考えてみろ」と言うと、目薬をさしたり、手術を終えた患者さんを家族のもとに誘導したり、カタコトのベトナム語でも患者さんとコミュニケーションを取ったりと積極的に行動するようになりました。感想文を読むとわかりますが、彼らにとってボランティア活動は非常に良い体験となるようです。府立医大の学生にもぜひ来て欲しいと思っています。
最後に
京都府立医科大学の学生や関係者、これから府立医大を目指す人へのメッセージをお願いします。
研究にしても臨床にしても、どんな道に進んでも頑張れば頑張るほど、障害、挫折や失敗をたくさん経験すると思いますが、それを乗り越え、その道では誰にも負けない存在になるという気持ちで頑張って欲しいです。京都府立医科大学は、大人しいけれど頭の切れる人が多くいる素晴らしい大学です。トリアス祭など華やかな一面もあるし、何より伝統のあるこの大学に入れて良かったなあと思います。僕は本当に京都府立医科大学のことを誇りに思っています。ぜひ府立医大にきて、学び、遊び、いろいろなことを一生懸命やりながら卒業して、患者さんのことを一番に考えられるドクターになって、視野を大きく持って日本だけではなく世界に飛び出し、世界で通用するような研究や臨床をして欲しいと思います。
これまではアメリカやヨーロッパに進んで留学する人が多くいました。これからはアジアの時代になりますので、アジアに向けて提携する大学や病院を探していくことが大切です。日本がアジアに果たす役割として医療は大きな分野なので、これからたくさんの人が世界に羽ばたいていくだろうと思っています。このコロナ禍においても、府立医大の研究グループには、新型コロナウイルスが感染する際の受容体であるACE2タンパク質を改変してウイルスとの結合力を約100倍にまで高め、抗体製剤と同等の治療効果を持つウイルス中和タンパク質(改変ACE2受容体)に着目し、どの変位型のコロナウイルスでも効果がある治療薬を開発している、素晴らしいグループがあります。ゼロコロナには絶対になりませんので、インフルエンザと同じようにこの新型コロナ感染に、治療薬ができて2類(*1)から5類感染症(*2)になり、早く人々の生活が通常にもどり、日本経済が立ち直るきっかけが早く訪れることを願っています。
(*1)2類感染症;総合的に判断し危険性が高い感染症として、患者の入院、場所や物の消毒等の措置を行政が行う感染症。急性灰白髄炎(ポリオ)、結核、ジフテリア、重症急性呼吸器症候群(SARS)、中東呼吸器症候群(MERS)、鳥インフルエンザ(H5N1)および鳥インフルエンザ(H7N9)が指定されている。
(*2)5類感染症;国が発生動向調査を行ない、必要な情報を国民や医療関係者に提供、公開していくことで発生・拡大を防止すべきものとされる感染症のこと。主なものとして、インフルエンザや風疹、麻疹、感染性胃腸炎、水痘、破傷風、梅毒、HIVなどがある。
取材・文:君島静(医4)