京都府立医科大学

京都府立医科大学 2022年に創立150周年を迎えます。

創⽴150周年記念インタビュー

2022.11.18

歴史ある大学で人を育てる喜び

京都府立医科大学 脳神経外科学 教授橋本 直哉

プロフィール

1990年、京都府立医科大学卒業。1993年4月-1996年3月、京都府立医科大学大学院医学研究科。1996年7月、テキサス大学医学部脳神経外科臨床フェロー。1999年4月、京都府立医科大学脳神経外科学教室 助手。2003年11月-2010年3月、大阪大学大学院医学研究科 脳神経外科学 助教。2010年4月-2010年10月、大阪大学大学院医学研究科 脳神経外科学 講師。
2010年11月-2015年6月、大阪大学大学院医学研究科 脳神経外科学 准教授。2015年7月-現在、京都府立医科大学大学院医学研究科 脳神経外科学 教授。

目次
  1. 神経科学に憧れ、切磋琢磨した学生時代
  2. 文化の違いに触れたアメリカ留学
  3. 臨床医であり、教育医であり、研究医であれ
  4. 日本の医学教育の方向性
  5. 150周年を迎える府立医大について

神経科学に憧れ、切磋琢磨した学生時代

こんにちは。本日はよろしくお願いします。まずは脳神経外科を志したきっかけを教えてもらえますか?

僕が府立医大の学生だった頃は神経に関する基礎研究をされている先生が何人も学長をされており、佐野豊先生、藤田晢也先生、栗山欣彌先生、井端泰彦先生と国際的にご高名な先生方が綺羅星のごとくいらっしゃった時代でした。その影響もあって、学生生活の前半で基礎医学を学んでいる頃から脳神経って面白いなと思っていたんです。漠然と自分も脳神経で何かできないかと思って、一時期は基礎の神経科学について研究したいと考えていました。

結局、臨床の道へ進むことに決めましたが、そうすると内科で神経をやるか外科で神経をやるかの選択になります。当時、脳を扱う内科はまだ1つの医局として独立しておらず、第一・第二・第三内科それぞれの神経グループが個別に神経疾患の診察にあたっておられたと思います。僕は神経を専門に扱っている医局に入りたいと考えて、脳神経外科にしようと思ったのが最初のきっかけです。

その後、6年生の夏休みを利用して済生会滋賀病院に泊まりがけで脳神経外科の見学実習に行っている時、名神高速で同級生3人が事故に遭い、偶然ですが済生会滋賀病院へと運び込まれたんです。そのうち一人が亡くなるという痛ましい事故でしたが、脳挫傷があった同級生にICU で付き添い、重症頭部外傷が治療によって治癒していく過程を目の当たりにしました。そのことで初めて脳神経外科という診療科の重要性を身を持って感じました。

学生時代の出会いや経験が今のご専門につながっているんですね。脳神経外科に進もうと決めた後、学生の頃から先を見据えてされていたことはありますか。

仲の良かった1人の同級生と一緒にECFMG(注)を受験しよう、また将来の専門にしようとしている神経のより深い勉強をしようと言って、週に1度くらいお互いの下宿を行き来して英語で勉強していました。2人で英語の成書を1年かけて通読しましたが、その本は今でも見返すことがあります。医学英語の勉強にもなりました。

一方で学生時代は遊んでもいましたね。硬式野球部と軽音楽部に所属し、特に軽音では必死でギターを練習していました。トリアス祭もコンサート部門長としてはりきっていました。バブルの雰囲気のある最後の時代で、カラオケやバーで遊ぶこともありました。

(注)Educational Commission for Foreign Medical Graduates. 日本で医学教育を受けた後にアメリカ、カナダで臨床に携わるために必要であった資格。現在のUSMLEにおおむね相当する。

トリアス祭(コンサート部門の看板の前で、1988年)

文化の違いに触れたアメリカ留学

橋本先生は臨床留学をされていますよね。さきほど医学英語のお話もありましたが、どのような準備をされましたか?

日本で1年ほど英会話教室に通いました。渡米したのは病院のプログラムに参加する3ヶ月前で、しばらくサンフランシスコに住む友達の家に居候させてもらいました。7月からヒューストンの病院で働く予定でしたが、ツベルクリン反応陽性が結核の既感染だと言われて病院に入れてもらえませんでした。それはBCGのため(注)なんですが、そう言っても信じてもらえなくて……。1ヶ月後にレントゲンを撮って結核肺炎でないことを示さないと病院の中で仕事をしてはダメ、ということで、8月からプログラムに参加しました。

現地で英語だけの環境に身を置いてから病院勤務を始めたのは、本当に良かったです。それでも初めは苦労しましたが、半年後には必要なコミュニケーションはとれるようになりましたね。

(注)日本では小児期に結核のワクチンであるBCGワクチンを接種するため抗体が産生され、それ以後ツベルクリン反応が陽性になる。一方アメリカでは一般にBCGワクチンを接種しないため、ツベルクリン反応陽性が出ると結核感染が疑われる。

臨床留学で印象に残っていることはありますか?

夜中にアフリカン・アメリカンのくも膜下出血の患者さんが来て、ボスは到着まで1時間かかるということでした。それで、開頭して病変の処置ができる状態までセットアップしておくように言われました。日本でも同じ手術は何例も経験していましたが、体も大きいしもちろん皮膚の色も慣れ親しんだものと異なり最初は戸惑いました。しかしメスを入れた瞬間から見えるものは皮下組織も側頭筋も頭蓋骨も、日本での臨床で経験したのとまったく一緒でした。肌の色こそ違えど、解剖や見た目は何一つ変わらないことに感動しました。

また、仕事をし、生活するなかで文化の違いを知ることができて良かったです。人種の坩堝(るつぼ)と言われ、色々な文化が混ざり合っているのがアメリカです。そういった環境でバックグラウンドの違う他者に対する寛容さを学びました。

留学中の橋本先生と手術風景(テキサス大学附属ハーマン病院)

医療の提供体制に関しては日米の違いを感じましたか?

医療も文化だと強く感じました。アメリカには皆保険制度がなく、病院でまずやることは患者の保険の確認です。プライベートの保険に入っていなければ治療費が払えないので、そのような患者さんは隣に建っているキリスト教の慈善病院に送られるのです。

また、アメリカの医者は日本の医者よりも独立していると感じました。権限が強くて、なんでも1人でやってしまう。また色々なことが合理的で、日本だったら術後10~14日は入院してもらうような脳外科の患者さんが、行っていたヒューストンの病院では3日でホテルに帰っており、医療費の抑制にも繋がっていました。

合理主義なのは施設の使い方にも言えて、例えばMRIは24時間電源を落とさないんです。昼間は外来患者さんを撮影して、夜になると放射線技師さんは交代して夜通し入院患者さんを撮影する。なぜなのか尋ねると電源を落としたら非効率だと答えが返ってきました。

アメリカの医師のほうが権限が強いということでしたが、分業が進んでいることの結果でしょうか?

その通りで、日本とは分業の程度が全然違います。くも膜下出血を例にすると、アメリカではまず救急医がくも膜下出血の疑いありと判断した場合、次に神経放射線科医が血管造影の画像検査をします。脳動脈瘤があるとなれば、今度は神経内科医が意識障害などを評価して手術適応ありと判断し、そうして初めて僕ら脳神経外科医に電話がかかってきます。日本ではくも膜下出血疑いの患者さんが搬送されたら、最初から僕ら外科医が救急室まで行くので大違いです。

細かく分業されていて、そのぶん自分の専門においては権限が強いと感じました。重症のてんかん患者さんがいたとしたら、脳波の技師さんが僕ら医師に脳波の読み方について詳細な専門知識を織り交ぜて教えてくれます。神経内科医は、手術中にこの部位から異常脳波が出現しているから、ここを摘除してくれと具体的に指示します。僕ら脳神経外科医はただ摘除するだけです。これは一例ですが、至る所でそのような分業体制が進んでいます。

分業が行き過ぎると、1人欠けると医療が進まないように思うのですが、大丈夫なのでしょうか?

医療資源が日本より豊富なので、それでも回るんだろうと思います。日本にあるのとは比べ物にならない大病院なので、人的な資源が大量にあって、だからこそ分業体制が維持できます。入院病床数は日本と同じでも手術数は3倍ほどこなしています。入院期間を短くすること含め、効率化しているからこそできることです。

臨床医であり、教育医であり、研究医であれ

研究を始めるきっかけはありましたか?

学生のころ衛生学の講義の担当が稲澤譲治先生(注)だったんですが、研究の手伝いで誰か染色体標本を作ってくれとおっしゃって、それで希望してリンパ球の染色体を分析する実験のお手伝いをすることにしました。放課後に毎日?研究室に通っていましたね。それがご縁で、大学院時代は稲澤先生の教室で研究をして学位を取らせていただきました。どんなきっかけがあるか分かりませんが、若い人は興味のあること、好きなことを研究したらいいと思います。

(注)2022年3月に東京医科歯科大学の教授を定年退官。京都府立医科大学出身。

研究をすることで臨床での実践が変わりましたか?

やっぱり研究をする前後では臨床における理解度が全然違います。患者さんだけを診て純粋に臨床実践だけやってきた医師と、それに加えて研究をして病態や病気の生物学的特徴まで把握している医師とでは理解の深さが違うと思います。特に脳腫瘍はいわば癌の一種で、たとえ外科医であっても癌の生理学や遺伝学が分っていないと治療できないんです。よく言われることですが、臨床医であって、教育医であって、研究医であれということだと思います。全て繋がってきます。

教育というワードが出ましたが、もう少し詳しく教えていただけますか。

教育は自分が勉強したことを人に教えて、そのことで自分の理解も一層深まるので、そこに携われるのはものすごくありがたいことです。“Teaching is learning.”と言いますが、まさにその通りで学生の教育であっても若手医師の教育であっても、同じことです。それに加えて自分の教育によってその人がステップアップしたとはっきり分かる瞬間があって、それに勝る喜びはないですね。

臨床、教育、研究と全てを行うのは大変なことだと思いますが、どうなのでしょう?

人生を通じて3つ全てに全力を尽くすのは、正直難しいと思います。時期的にどれかに軸足を置くことがあってもいいのではないでしょうか。実働期間として40年ある人生だとしたら3つに分けても13年ずつ、それなりに時間が割けるじゃないですか。例えば大学院生の間は研究にウェイトを置きながらも、いずれ臨床現場へ戻ることを意識しながら過ごすことが大事です。そうして、臨床、教育、研究の各現場で、時期が来たら人が順に変わっていけば全体として上手く回ると思います。

大阪大学時代 ギリシャとフィリピンから留学した脳神経外科医の指導。

先生はいま学生部長をされていて、私たちから見ても臨床の傍ら学生教育にとても熱心に取り組まれていると感じます。昔と比べて今の学生の良い点と悪い点はどこにあるとお考えですか?

今の学生は自分の意見をはっきり言うことができて、とても良いと思います。自分が学生だった頃よりも、今の学生たちのほうがコミュニケーション能力が高いですね。教員にも自分の意見を言うことができるし、質問するのも上手です。スマホなどコミュニケーション手段が発達したおかげで常に色んな人と繋がっているためだと思いますが、自我がしっかりできている気がします。

一方でその弊害として、グループで勉強するのは苦手になっているかもしれません。みんなで団結して1つの目標に向かうことに関しては、自分たちが学生の頃のほうが、そういった雰囲気があったように思います。

危惧しているのはコロナ禍でさらに学生同士の繋がりが希薄になってしまうことです。クラブ活動や学園祭の経験が少なくなってきているだけでなく、授業や実習で対面で会う機会も減っているのは繋がりの希薄化に拍車をかけないか心配です。

日本の医学教育の方向性

日本全体の医学教育について伺いたいです。医学の発展で医学生が学ぶべき内容が膨大になって医学カリキュラムの改変も繰り返されています。詰め込みの弊害も指摘されていますが、どういった方向性で医学教育は進められるべきでしょうか?

今の日本の医学教育の改変は、自分が学生時代にまさに感じていた不満のベースにあった問題点を、上手く改善してきた結果だと思います。アメリカは4年制大学を出た後にメディカルスクールに通って医師になるので日本とは制度が根本的に違いますが、その良い部分を国や厚生労働省が取り入れる形で制度改革していると感じます。医学部4年生が受けているCBTやOSCE(注)が今後、医師法に正式に位置付けられることが決まっていますが、アメリカ型の4年間ジェネラルな勉強をした後に、医学部5〜6回生プラス研修医2年でアメリカのメディカルスクール4年に相当する勉強をするというスタイルに寄せていくプロセスだと思います。自分が学生の頃よりも臨床実習は充実していて、より実地的な勉強ができるようになっています。学生はそのぶん自由な時間が減っていますが、自分で勉強することの重要性は増していますね。

(注)CBT:computer based testingの略。ここでは、医療系大学間共用試験実施評価機構が実施する臨床実習前の共用試験のうち「コンピューター画面上に提示される知識の修得度を評価する試験」のこと。医学生はこの試験に合格することが臨床実習に参加する必要条件になる。

(注)OSCE:ここではPre-Clinical Clerkship Objective Structured Clinical Examination(Pre-CC OSCE;臨床実習前客観的臨床能力試験)を指す。医療系大学間共用試験実施評価機構が実施する臨床実習前の共用試験のうち「患者さんに接する態度や診察の仕方、基本的な技能の修得度を評価する試験」の内容であり、前述のCBTと並んで、合格することが医学生が臨床実習に参加するための必要条件である。

方向性としては今の医学教育改革は上手く進んでいるということですね。

欧米型の医学教育の良い点を取り入れる形で、全体的な方向性としては良くなってきていると思います。専門医制度も、欧米のレジデント制度を模倣して制度の改革が進んでいます。脳神経外科は麻酔科と並んで古くから専門医制度を持っています。我々の先輩がアメリカから制度を持って帰ってきたんです。とにかく医学生の教育から若手医師の教育まで、医学教育が欧米の制度ベースで改革されつつありますが、そこに日本あるいは東洋独自の要素が取り入れられるといいかなと思っています。漠然とした思いで具体的な構想があるわけではないのですが、例えば仏教的なもの、あるいは京都的なものの要素が入るといいですよね。

私たちが入学した後に前学生部長から代わって橋本先生が学生部長に就いていらっしゃいますし、また交代のタイミングもあると思います。先生ご自身のキャリアとして、次のフェーズに移るとしたら、そこにはどんな目標があるでしょうか?

若い頃と違って自分自身に関して目標を立てるのは難しくなってきていますが、教室の教授としては、世界に冠たる脳神経外科の医局をここに作りたいですね。自分が入局した頃には上の先生はみな志として口にしていたので、いま再びその目標に向けて頑張りたいと思います。

150周年を迎える府立医大について

一時期大阪大学にいらっしゃった橋本先生から見て、府立医大の特徴、あるいは良い点と悪い点を教えていただけますか?

大阪大学では府立医大との校風の違いを顕著に感じました。大阪大学医学部は有名な適塾が母体になっていて、創始者の緒方洪庵が日本で初めて唱えただろう身体機械論(身体すべてが機械とする見方)が伝統として残っています。ある意味でこれは正しくて、機能を果たすために臓器が存在するという捉え方は科学的で合理的な見方です。大阪大学は移植医療などが強いですが、間違っているかもしれませんが、やはりそういった価値観や伝統を反映しているのではないかと感じました。一方の府立医大ですが、こちらも創立の経緯を伝統として強く持っています。明治維新の後、京都を盛り上げようとする動きのなかで府民に医療を提供しようと奮闘した建学のいきさつがありますね。その精神が現代にも続いていて、患者さんを1人の人間として総合的に診ることに府立医大の強みがあると感じます。大阪大学に属していたので例として挙げましたが、それぞれの大学に校風があって、そのことにより医学教育の多様性が担保されていくことが重要かも知れません。

若い人は府立医大や関連病院から飛び出して外に出る機会があってもいいし、そこで得たものを持って帰ってきて大学と府民のために還元してほしいですね。

最後にこの記事の読者の皆さんへメッセージをいただけますか。

今後も府立医大の教員として、良い大学の歴史を紡いで、良い医療人を育成することに誠心誠意尽くしたいです。本学の受験を考えている受験生の方へは、長い歴史のある大学ですし京都の素晴らしい立地で医学を学べるのはとても良いことで、ぜひとも受験してほしいと伝えたいですね。在籍している学生には、この大学を引き継いでいってほしいというのがメッセージです。

今日はありがとうございました!

取材・文: 長山 透流(医5) 

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