自己紹介
本日はよろしくお願いいたします。まず、自己紹介をお願いします。
平成5年に大阪大学医学部を卒業し、一度は小児科医としてプロフェッショナル・キャリアを始めましたが、現在は本学の生体機能形態科学教室で解剖学教授をしています。広島の山中の村に一軒しかない開業医であった曽祖父の影響で、医者という仕事には幼い頃から憧れていました。今だったら、きっと怒られると思いますが、小学校2、3年生の時には、祖父の家に残っていたもう使われていない古い医院の薬局に保管してあったホルマリンを、昆虫採集の虫の保存に使ったりしていました。小学校の時にリアルタイムでブラック・ジャック(著者の手塚治虫も阪大医学部卒)の連載を読んで憧れたこと、祖父が胆嚢癌を患ったことも、医学部を目指す大きな動機になりました。結局浪人しましたが、高校時代のテニス部の友人が阪大医学部に入ったことにも影響されました。
そのような経緯で阪大の医学部に入学されたのですね。先生は基礎の研究者としてキャリアを築いてこられましたが、医学部入学当初から研究に興味を持たれていたのでしょうか。
医学部に入った時は、祖父の癌の経験とブラック・ジャックへの憧れで外科医になる気満々で、基礎に行くとは思ってもいませんでした。その時の自分が30年後の今の自分を見たら驚くだろうと思います。
私が臨床実習を始めた頃に、大学のテニス部の先輩がICUの医師をしていました。ICUは主治医がなく時間シフト制で、そのオフの時間に先輩が学生の自分をテニスに誘ってくれたり、ご飯に連れて行ってくれたりしたのです。このように実習以外のところでICUで働く医師と関わり色々とお話を伺っているうちに、患者から「この先生ならなんとかしてくれるに違いない」と思ってもらえるような知識や技術を身につけたい、とも思うようになりました。
当時の阪大では、心臓血管外科の川島康生教授(現阪大名誉教授/国立循環器病センター名誉総長)が先天性心疾患の専門家として、特にファロー四徴症の手術などで世界的に功績を挙げ、患者さんが広域からたくさん集まって来ていたことにも影響を受けました。一方で、自分は外科には向いてないなと思い始めていたこと、心臓血管外科だけでは医療は成り立たず、治療をうまく成り立たせるためには外科的な視点だけではなく、小児科医との協力が不可欠なことに気づいたことも、自分が進路を決める際に大きなファクターとなりました。私は、子供は嫌いではないのですが、保育士のような子ども好きタイプでもありませんでした。でも、臨床実習を重ねるにつれ、小児の生まれつきの心臓の形態異常を扱う小児内科を進路として選びたいと考え、小児科医になることにしました。そして、2年目にICUへとローテートさせてもらうことを条件に小児科の医局に入り、先天性心疾患を抱える小児の管理に関わりました。病気を抱えた子どもたちを、どうやって大人に成長させてあげるのかについて日々取り組む小児科医の仕事は、今でも素敵な仕事だと思っています。
6年時ICUの先生方とのスナップ写真
ICUの先生方とテニスをした時の写真。最後列1番右、当時の阪大病院ICU部長 妙中信之先生(現 宝塚市保健福祉サービス公社理事長)。最後列右から2番目、阪大医学部麻酔科教授(当時) 吉矢生人先生(現 阪大名誉教授/星ヶ丘厚生年金病院院長)。最前列の1番左が先輩である竹内宗之先生(現 大阪母子医療センター集中治療科主任部長)。最前列右から二番目が八代。
手術をするだけでなく、その前後の適切な管理が不可欠なのですね。術後管理の具体的なエピソードがあれば教えていただけますか。
ICUで先天性心疾患に罹患した小児の周術期管理に関わる中で、術後管理で超音波検査(エコー)が有用だと気づきました。当時は、開心術後の管理にルーチンでエコーを使用するなんてことは、小児のエコーを行える者がICU内に常にいたわけではないので、あまりなかったように思います。心臓の手術後、普通は約8~10時間後に心機能の底値を迎えますが、多くはその時間帯は夜中で、循環器小児科医がそのタイミングでICUにいつも来ることができるわけではありません。そこでICUで勤務している自分がエコーを覚えれば、小児科の先生が来れない時間帯にエコーを使って、術後管理に活かせると思いついたのです。オフをつぶして、小児科循環器外来のエコー室で必死に手技を覚えました。
ある時、当直時間帯(夜中)に心機能がとても悪いわけではないけど、手足を触ったら冷たいし、なんとなく心許ない心機能だなと感じた患者がいました。私はイノバン(ドーパミン)の持続投与量を少し増やしたほうが良いかもしれないと思いつつ上級医に相談してみたのです。その先生も同じように感じておられたので、一緒にエコーを当ててみたところ、やはり心臓の動きが良くなくて、「根拠を持って」イノバンの増量を決断できました。新しい知識や技術を身につけることで、患者の役に立てるのだと実感しましたね。麻酔も勉強したいと思って、オフはいらないから麻酔を教えてくださいと頼んで、手術室で麻酔もかけさせてもらいました。エコーを覚えて、先天性心疾患の子供たちの心臓の形態を観察するようになってから、どうして形態異常が生じてしまうのだろうという思いが、次第に強くなっていきました。
初期研修医時代
卒後3年目に勤務していた愛染橋病院小児科NICUでのスナップ。
そのような臨床経験がリサーチクエスチョンにつながっていったのでしょうか。
臨床経験を積む中で、先天性心疾患に共通するメカニズムがあるのではないかと考えるようになりました。当時はノックアウト・マウスの研究が盛り上がってきた時代でしたが、先天性心疾患の遺伝子研究はほぼ皆無の状況でした。私は当時の阪大の小児科教授(Tay-Sachs病の原因を突き止めたことで名が知られている岡田伸太郎先生)に「心臓の先天的な形態異常ができるメカニズムの研究をしたい。誰もやっていないことをやりたい」と伝えました。教授は発生生物学の研究の重要性を理解してくださり、それでは研究できる場所を探そうということになりました。
ちょうど大阪大学の細胞生体工学センターで濱田博司教授がラボを立ち上げようとしておられ、幸運にも誘っていただきました。濱田研に参画する経緯ですが、ちょうどその頃、Cell誌の表紙を飾った衝撃的な論文に出会っていたのです。ニワトリの胚で左右非対称に発現する遺伝子発見の報告でした。その遺伝子の機能を阻害すると心臓の向きが左右逆になることまで示されていました。阪大病院で臓器錯位症候群の複雑な先天性心疾患患者のお世話を数多くさせていただいていたので、この遺伝子異常があの心臓形態異常の原因だったのか!と直感的にパッと結びついた。これはすごい研究が出てきたと、その論文をなめるように読み込みました。当時は外病院に勤務していて、今では(個人情報保護の観点から)あり得ない話ですが、難しい症例のカルテや画像データを抱えて大学まで行き、専門家に治療の相談をすることがよくあり、大学に行ったついでに図書館でCellやScienceなどの雑誌を何か月分かまとめて読んでいたんです。濱田先生はマウス初期胚で左右非対称に発現する新規遺伝子をちょうど発見された直後で、私がCellの論文を読んだと言うと、「臨床をしながら基礎の論文を読んでいるなんて面白い、ぜひうちに来なさい」と言っていただいた。それで、運命的なものを感じて濱田先生のラボに入ることになりました。
濱田先生の研究室は大きな雑誌に掲載される論文をいくつも次々と発表する快進撃を見せていまいしたが、自分の与えられた研究テーマは大きな成果にはならなかった。同期の活躍を見ていると、もっと自分もやりたいと思いました。消化不良でした。今でこそハイ・インパクトの雑誌に載せることが全てではないと思いますが、当時は若かったんですね。学位取得後、医局からは小児科に戻ってくるように言われましたが、自力をつけるためにもう少し今の研究室に残りたいと頼むと、折れてくれました。一方、濱田先生からは、もう小児科に帰りなさいと言われるかと思ったのですが、博士研究員をやりたいと伝えると、思いの外に二つ返事でいいよ、と言ってくれました。博士研究員としての研究はうまくいき、当時望んだように一流誌に掲載されました。
あるとき、研究成果をCSHL(ニューヨーク郊外の有名な研究所)で行われた国際学会で口頭発表をするよう言われました。初めての国際学会だったので不安もありましたが、英語での発表を周到に準備していくと、幸いうまくいきました。発表翌日にCSHL内の食堂で朝食をとっていると、教科書でしか知らなかったような先生が声をかけてくれて、「昨日の発表はよかった、また話そう」と言われました。いい仕事をしていたら、世界的な研究者と互角に話せる。とたんに目の前の世界が広がったように思いました。
それが一つのきっかけとなり、臨床医としてではなく、サイエンスに生きようと決意しました。けれど当時は結婚して子供もいたので、食いっぱぐれのなさそうな医師の道に戻るか、退路を断って基礎研究者になるかの決断の際には葛藤しました。
濱田研時代
最前列の右から2番目が濱田博司教授。濱田先生は、理化学研究所(神戸)の立て直しに阪大を退官後に奔走され、現在も神戸理研で現役の研究者です。2列目左から三番目が八代。
医師ならではの視点を生かした研究の道
研究者として大切にされていることはありますか。
人と同じことをするのではなく、人と違う角度で見ることですね。大学生の時は自分がクリエイティブな仕事をできるのかわからなかったのですが、大学院生から博士研究員までの8年の間、一所懸命に基礎研究の世界に身をおいてみた結果、オリジナリティーのハードルは決して高くない、人とはちょっとだけ違う視点が持てるだけで良い、と思えてきたのです。研究ではみんなと同じことをしていても新しい発見はできない。医学生のような受験優等生は与えられたものを上手にこなすのには長けているが、クリエイティブな思考の練習をしてない。しかしそう言ったことにさえ気付ければ、あとは訓練で何とかなると思います。
自分に子供ができてからカメラにも興味を持ち始めたのですが、写真を撮る際の視点を見つけるのも、研究におけるのと似てますね。どう切り取るか、という視点が大事。材料が同じでもどう料理するか、を楽しめるのが大事だと思います。山登りでもきっと同じで(私は登山はしませんが)、どこから、誰と登るか、どういう道具を使うかを楽しめるのがきっといいですよね。天邪鬼的な遊び心を持っているのがいいんです。
発生生物学をやっている人は、海外ではほとんど医師ではありません。ロンドンでもアメリカでも、なぜ医師免許を持っていながらこんなことをしているのかと良く聞かれました。一方で、臨床から距離を置き基礎科学で生きて行こうと決意したのは卒後8年目くらいの時。その間、研究もしつつ小児科の救急やNICUの当直などをこなしていましたが、臨床を多少なりとも知っていたからこそ、理学部や農学部の人が持っていない視点を持てて、そこが自分の強みだと気づき始めました。私はもともと悲観的な人間でしたが、ダメかもしれない、と考えていても物事はうまくいかないんですよね。研究者になってからは自分でコントロールできないことに対してクヨクヨするのはやめよう、ダメでも次、というマインドを意識し始めました。濱田先生のもとでの11年間の研究室生活で最後の仕事は、結果的にNatureに掲載されましたが、医師ならではの視点が満載の論文でした。
ロンドンへ
濱田先生の研究室では素晴らしい経験ができましたが、そこに属し続けることは研究者として独り立ちする上でプラスにならないと考え、外に出ることにしました。どうせ出るならと、英語圏でのポジションを探し、2年くらい就活をしました。就活の一環として、米国を中心にいくつかの研究機関へセミナーをしに行ったりしました。そんな時に、テニス部の先輩である鈴木憲先生に、ロンドン大学メアリ女王校でラボを立ち上げるので一緒にやらないか、と誘われたのです。初めはイギリスなのに邦人主宰のラボには行きたくないと思い断ったものの、何度かお誘いを受けたので、お話を聞きにロンドンに行ってみることにしました。ロンドンで出会ったイギリス人の基礎研究者(ポール・ライリーさん。英国での一番の友人。今やオックスフォード大の教授です)の方と意気投合して一緒に面白いことができそうだと思ったのと、自分で研究費をとったら好きなことをしていいと鈴木先生がおっしゃってくださったので、2007年の夏に日本を離れてロンドンに渡りました。
ロンドンで出会った方々
左から、先天性心疾患病理の神様、ボブ・アンダーソン教授(ニューカッスル大学)、ティム・モーハン教授(フランシス・クリック研究所)、八代、マイケル・シュナイダー教授(インペリアル・カレッジ・ロンドン)、ロンドンで出会った一番の親友、ポール・ライリー教授(出会ったときはUCLの講師、現在はオックスフォード大学)。
最初は鈴木先生の研究の手伝いをしていましたが、それと並行して研究費の申請をしたところ、Medical Research Council (MRC)の研究費を獲得できて、初めて自分のオリジナルの研究を立ち上げることができました。新しい研究として始めたことは、将来の心臓を作り上げる心臓前駆細胞がどのようにして分化して、またどのように心臓を作り上げていくのかを解析するプロジェクトでした。8年11ヶ月のロンドン生活では、自分の研究費の中で博士研究員も雇い、ラボ内研究チームとして、独立した研究を本当に好きにやらせてもらいました。鈴木先生には頭が上がりません。
留学先研究所近所のパブで
医学部時代の同級生、坂田泰史先生(現 大阪大学大学院医学系研究科循環器内科学教授)が留学先に訪ねてきてくれて、研究所近くにある200年ほどの歴史のあるパブで食事をしたときの写真。
帰国の決断
2015年に、iPS細胞由来心筋で有名な大阪大学心臓血管外科教授の澤芳樹先生が欧州の学会に招待演者として来られた際、澤先生も阪大テニス部のOBの先生なのに、実はその時に初めてお会いしました。一時帰国の予定があるなら阪大まで会いにおいでとおっしゃってくださり、ちょうど、すぐに小児循環器学会の分科会の招待口演で一時帰国したのですが、その時に日本でiPSの研究を手伝う気はないか、と誘われたのでした。
日本に帰国するかどうかはかなり悩んで、いろんな人に相談しました。私自身の年齢的なことも考えて良い話だと思うと、相談した皆さんに言われました。当時のイギリスでは国民投票でBREXITが勝ち、移民の立場がどうなるかも分からなかったので、一つの選択として良いのではとも言われました。結局、家族で話し合い、2016年に日本に本帰国することを決断しました。
澤先生の研究室には、申し訳ないことに結局約2年ほどしかいませんでした。京都府立医大で解剖学教授の公募があり、澤先生が自分の進む道として府立医大での教職を積極的に考えてみたらどうかと勧めてくださったのです。縁あって、2018年11月に教授職を拝命し、着任しました。澤先生にも大変に感謝しています。
積極的に動かれていたからこそ、いろんな人とつながっていったのかもしれないですね。
仕事でも学会でも知らない場所に関わりに行くと、アウェイで場違いだと感じることももちろんあるのですが、そこから思いがけない出会いがあって、面白いつながりができるかもしれません。これはどの世界でも通じるのではないかと思うんです。例えば経営がうまくいっていなくても、あらゆるところとつながっている大きな銀行は国に支えてもらえるように、つながりが多いと周りが助けてくれるのでしょうかね。生き残りの戦略としていろんなところとつながっているというのはいいのかもしれません。小児科から発生学、心臓外科が目指す再生医療を下支えする基礎医学、そして解剖学へとアウェイ(?)の連続で、肩書きだけ見ると脈絡がなさそうですよね。自分の中ではつながっているんですけどね。自分の場合は単に運が良かっただけかもしれませんが、幸いなことにとても多くの方々に人生の転機の折々で助けていただいたおかげで、今日があります。感謝してもしきれません。
ウインブルドン・センターコート
9年近くいたロンドンで、たった一度だけチケットが手に入った。遠い方のコートでサーブを打っているのは、シャラポア選手です。
外から見た京都府立医科大学
京都府立医科大学の良さは、規模がちょうどいいことだと思います。阪大では解剖学だけで四つの講座があるのと違って、本学の二講座での体制は、各教室への負担は大きいが連携がとりやすい。単科大学と総合大学を比べるのは違うかもしれないですが、大きすぎないからこそフットワークが軽いのはいい所だと思います。研究の環境としては、総合大学の設備と同じとはいえないですが、ものがなくても借りに行けるし、共同研究で進める道もあります。手元にある資源を使って、どうやってやりくりするかを考えることも楽しいものです。基礎研究に限らず、どの分野でもそれは共通することだと思います。
また、府立医大では卒業生の母校愛がすごいのが印象的ですね。阪大と比べても、OBが母校を思う気持ちはずっと強いと感じます。京都で大学病院といえば京大ではなく府立医大と聞きます。古い歴史があって、北部の医療も一手に引き受け、府民からも愛されているのは誇るべきところです。OBのネットワークももちろん強みですよね。そして循環器を志した元小児科医の私としては、小児心臓外科の山岸正明病院教授(学生さんたちはピンとこないかもしれませんが、先天性心疾患手術のスーパースターです)のおられる病院の横で、心臓発生の基礎研究できるのは光栄です。
一方で、どこの医学部でもそうですが、医学部に合格することを人生のゴールと間違えてきてしまった学生が一定数いるように思います。そういう人たちはどうしたらやる気になるのか、というのが悩みの一つです。
あと、いわゆるお受験の偏差値に大学入学後も縛られているのかな?、と感じる学生もいますね。腕の良い医師になるのに、出身大学はあまり関係ないと思っています。もちろん、学生時代の環境によってどんな情報に晒されてきたかの違い、例えば、講義の時に教科書的な話だけではなく、先端医療や最新の研究で話題になっている話にインスパイアされたかどうかなどは、学生の進路に少なからず影響はあるように思います。でも、それ以上に、学生自身が自分で欲しい情報を取りに行き、何をやると決めて、それの実現に向けて具体的にどう取り組んでいくかの方が大事だと思います。
本学の学生さんに考えて欲しいのは、府立医大のアイデンティティーとは何か、自分たちの何が強みで、自分たちの価値を高めるためにどうすべきか、ということです。イギリスの大学のように、例えばオープンキャンパスとかで、現役の学生さんから受験を考えている高校生・浪人生たちに、大学の特色や、府立医大だからこそこんなことが学べるんだよ、ということを明確にアピールできると良いですね。受験生が、是非に府立医大で学びたいと思えるようにアピールできて欲しいし、皆がそういうことを意識することで、本学はますます発展していくのではないでしょうか。自分がベストだと思える大学・病院として、本学を選んで欲しいですよね。例えば、大学の規模にも関係があると思っていますが、教員と学生の距離感が近いのがこの大学のいいところです。学生の面倒見は、国公立の中ではめちゃめちゃ良いのではないでしょうか。ここの学生はそういう意味では恵まれています。大きい大学の医学部と同じことをしても仕方ない。大きな大学ではできないことを、どうやって伸ばして強みに変えていくか。研究も同じですが、ニッチを突かないと生き残っていけません。
学生に向けたメッセージ
面白がれる視点を持てるかどうか、が生きていく上で大切なのではないかと思います。掃除だっていやいややるのではなく、ゲーム性を持たせて効率よく時間も短くできるかもしれないですよね。ほんの少し視点を変えるだけで、大きな違いを生むのです。
留学先研究所中庭
ロンドン大学メアリ女王校の医学部は歴史も古く、美しい芝の中庭の向こうにはシンボル的な時計台が見えています。手元に咲いている青い花は、英国の春の代表的な花であるブルーベル。
取材・文:磯邉綾菜(医5)橋本寛子(医5)