京都府立医科大学

京都府立医科大学 2022年に創立150周年を迎えます。

創⽴150周年記念インタビュー

2022.03.31

行政の中で医療者としてのコロナ対応

聖ヨゼフ医療福祉センター院長糸井 利幸

プロフィール

1981年、府立医大卒業。小児科に入局。
1982年から福井愛育病院で、小児科医員。
1984年から4年間、大学院で心筋代謝を研究。
1988年から1990年、福井循環器病院に勤め、その後1年4カ月は大津市民病院小児科で勤める。
1991年8月からカナダのアルバータ大学に2年8カ月間留学。
その後、府立医大に戻る。(1994年-2016年)
2016年から中丹西保健所(福知山)に3年間勤める。
2019年8月から京都府の本庁の保健医療対策監。
2020年3月から京都府新型コロナウイルス感染症入院医療コントロールセンター センター長。
2020年11月、健康福祉部長に就任。
2021年4月から聖ヨゼフ医療福祉センター院長。

目次
  1. 小児循環器医として
  2. やり残した研究をカナダで
  3. 行政に関わる医師の仕事
  4. コロナ禍における医療と行政
  5. 再び小児科医に
  6. 学生へのメッセージ

小児循環器医として

小児科医を志したきっかけを教えてください。

私はもともと外科系を志望していて、特に脳神経系に興味がありました。中でも子どもの先天性の脳神経疾患を専門にしたいと思っていたので、進路を小児科にするか脳神経外科にするか迷いに迷っていました。大学6回生の夏のことです。その迷いを小児科に進んだ先輩に相談したところ、小児科には総合診療がベースにあると言われました。医師として患者さんに向き合うのはどちらの科も同じでも、患者さんの全身を総合的に診ることができるのは小児科の大きな魅力だということです。また、医局には診療科ごとにカラーがあって、朱に交われば赤くなるのかそれとも類は友を呼ぶのか分かりませんが、自分に馴染む環境を選ぶのも重要だと思います。そういう面からも、私は結局は府立医大の小児科を選びました。

2年目に勤めたのは福井の病院です。その病院の創設者でもある院長は府立医大出身の小児循環器の先生で、そこは当時としては先駆的な小児科と産婦人科による周産期医療を中心とした施設でした。NICU(*1)と一般診療、そして子どもの心臓カテーテル検査を行っていました。医局の指導医からその病院に行かないかと声をかけられたのですが、もともと私は神経系に興味があったので、一度は断りました。が、当時扱うことのできる小児科医が少なかったレスピレーター(*2)の技術をその病院では学べるということで、そこで働き始め、気付けばすっかり小児循環器が専門のようになっていました。その後大学院に行き、循環器の研究を始めました。

初めは神経系に興味があったのが、今度は循環器の研究を始められたのですね。

当時の小児科の教授は代謝が専門の先生だったことに加え、その頃内科でトピックだった心筋代謝を小児で扱っている人はいなかったので、未熟心筋の代謝を研究テーマに選びました。私のいた代謝の研究グループは肝臓の代謝を研究していたのでその研究のノウハウを教わって心臓に応用しました。

神経ということでいうと、脳神経ではないですが、循環器に大きく関わる自律神経は今でも勉強しています。臨床家であり研究者でもある医師のキャリアは大抵当初思い描いた通りにいかないものですが、行った先でちゃんとやっていればそれが後々身になっていきます。

小児科を選んで良かったと思われますか。

やりがいのある仕事なので、良かったと思っています。小児科というのは子どもだけを相手にする仕事ではありません。両親、祖父母など子どもに関わる人たちを含めた総合医療なので、そういう意味でやりがいがあります。ご両親とは、今後の治療方針はもちろん、これ以上治療ができないとなった場合や残念ながらお子さんが亡くなった時の精神的サポートなど、これは看護師さんも一所懸命しますが、我々医師もします。夜を徹して患児のお父さんと話し合ったこともあります。今は胎児医療の倫理観も重要です。胎児エコーで重大な疾患を見つけた時にどう説明するか。精神的に楽なことではありませんが、人生経験は豊富に培われます。繰り返しになりますが、やはり小児科は総合医療だと感じますね。

(*1)NICU:新生児のための集中治療室
(*2)レスピレーター:人工呼吸器

やり残した研究をカナダで

その後留学に行かれたということですが、その契機を教えてください。

大津市民病院の循環器センターに小児科の立ち上げを任されましたが、小児循環器医が1人でできることには限界があり、入院患者さんもほとんどいなかったので、今後のことを考える時間ができました。心筋代謝について大学院で4年間研究しましたが、まだ十分研究できていないという思いがずっとあったので留学したいと考えるようになりました。留学先を確保するべく自分で手紙を出しました。心筋代謝のメッカであるオランダとイギリス、ドイツ、あとはアメリカなど全部で十いくつ出しました。残念なことに、ほとんどのところは「来てもいい、でもお金はないから研究費は自分でとってこい」という返事でした。無理かなと思っていた時に、論文を読んでいると非常に私と考え方が似ている小児科の研究を見つけました。その研究を行っているカナダの大学に手紙を出したら、そこは即OKで給料も出してくれると。場所すら知らなかったけれど、アルバータ大学に行くことにしました。幸い、行ってすぐにグラント(奨学金)もとれました。

その当時、そこは小児科の研究室でありながら研究員に小児科医がおらず、薬理学が専門のボスが小児科医を探していました。後から聞いたのは、カナダ人と私がエントリーしていたのだけど、私のボスは彼自身のボスから、もしお前がラボを持った時には日本人を雇えと助言を受けていたそうなんです。日本人は確実に仕事をして成果を出して確実に帰るから、ということでした。いろんな意味でラッキーでした。

アルバータ大学附属病院の内部

研究自体に苦労はありましたか。

心筋代謝の研究では多くの困難がありました。心臓手術の際心臓を止めますよね。その心臓が復活する時に動かなくなる「再灌流障害」というものをいかに防ぐかという研究で、孤立灌流心という心臓を取り出して動かすシステムを作る必要がありました。そのシステムを作ることがまず大変でした。対象としているのが小児の未熟心だから実験動物も幼体を選び、灌流液を流して心臓を動かしながら代謝を見ていく。放射性同位元素でマーカーしたブドウ糖やパルミチン酸を加えた灌流液を利用します。その灌流液を流して酸化されて出てくる二酸化炭素の量を測定して与えた栄養分がどれだけ代謝されたかをみるのですが、前灌流後30分から40分間の灌流停止による心臓を全虚血にした後、再灌流時の心機能とその時のエネルギー基質の変化を測定します。
大人の場合は対象疾患として心筋梗塞が主なので灌流心も左心室だけで良かった。けれども、ゆくゆくは心臓手術後の先天性心疾患に応用したいという思いがあって、右心室にも負荷がかかることが多い先天性心疾患を想定すると両方の心室を灌流したい。二心室孤立灌流心(biventricular perfusion)というんだけど、そのアイデアをボスに伝えると、新たなシステムの構築には時間がかかり効率が悪いから、やめた方がいいと言われました。でもそのラボに1年間のサバティカル(*3)に来ていらっしゃった小児循環器科の教授がそれは絶対必要だ、とボスに進言してくれました。何度目かのラッキーな話です。生理学の分野では複雑な両心室灌流の研究があるけど、当時心筋代謝の領域には報告はなかった、そのためかこの新しい研究テーマの企画書がカナダで優秀賞かなんかもらいましてね。

すごいですね。

すごいのは企画書だけで賞がもらえることなんですが、実現するのにちょっと苦労しました。先天性心疾患は心臓に負荷がかかっているんだけど、手術を前提にしているので、治療して負荷がなくなった心臓を再び動かすと考えると、摘出する前に心臓に負荷をかけていないといけない。シャントを作るのも非常に苦労しました。モデルを作るのに1年ぐらいかかったかな。でも面白かったです。ボスの理解があることと、そして成果が出るまである程度気長に待ってくれると新たな挑戦がしやすくなりますね。

いろんな苦労はありましたが、一方で留学生活は大いに満喫しました。ロッキー山脈のふもとで、夏はキャンプ、冬はスキー。一年中楽しんでいました。4人いた子どもを連れていって、向こうで1人生まれて5人になりましたが、各所でカナダの人のサポートがすごくありました。良かったです。

(*3)サバティカル:勤続年数が一定以上に達した従業員に対して付与される長期休暇で、使途に制限がない。

左:アルバータ大学でのボス(右)とフランスで研究会に参加
中央:開発した二心室孤立灌流心(biventricular perfusion)の図面
右:上記の実物

行政に関わる医師の仕事

帰国後は府立医大に戻られたんですね。

大学教員は臨床と教育と研究の三つを同時に行うことになっていますが、それはなかなか大変で、どこかで妥協する人が多いのも現実です。私は基本的には小児循環器の臨床をやりつつ、代謝の研究もやって、なんとか大学院を続けてもらえる人を探して説得して、教育と研究と臨床とをできるだけバランス良くやったつもりです。さらに医療安全にも興味があって、病院の医療安全管理部の副部長を10年ぐらい務め、そうこうするうちに福知山の保健所で働かないかと声をかけてもらいました。

保健所での医師の仕事について教えてください。

ものすごく多岐にわたります。福祉、衛生管理、環境管理、そして感染症、災害、食中毒や虐待への対応。福知山では屠畜場の管理もありました。水質検査、細菌検査もしていて、うちの小児科の教室に欲しいぐらいの結構良い測定機器もありました。看護学校での公衆衛生の授業も依頼されて、医療制度、福祉制度、環境関係などの本を買って必死で勉強してスライドを作ったり、感染症、熱中症、生活習慣病などについて一般の方向けのレクチャーをしたり、自分自身とても勉強になりましたね。

保健所のお仕事のモチベーションは何だったんですか。

保健所では、臨床や研究をしているだけではお目にかからないような新しいことが業務としていっぱい降りそそぐんです。個人的にいろんなものに興味をもっているので、それがすごく良かったです。大学病院では敗血症やその他一般的な感染症にはお目にかからないけれど、保健所にいたら全然違う。結核、様々な食中毒に対する行政指導、治療方針の決定などを行うのですが、病院からは教科書に載っていないような様々な疑問が寄せられます。これらに対しても行政上の最終判断をしなければなりません。これもかなりストレスでしたが、やりがいはありました。

その当時から保健所では感染症対策が大事だという意識が強く、毎年病院に集合してもらって新型インフルエンザが流行した際の対応の訓練もしました。新しい災害対応システムを作るために、病院・行政はもちろん、北部では自衛隊も含めた、広範囲なグループを集めることもありました。福知山市民病院のDMAT(災害派遣医療チーム)の人々に出てきてもらって、府立医大出身の人も多いんで手伝いをお願いしてね。なかなか面白かったです。

奈良県の広域災害訓練のうち本部機能の訓練に参加

その後行政のお仕事もされたんですね。

保健所の後は、保健医療対策監として研修医制度、専門医制度、地域医療構想の制度設計の仕事をしました。専門医制度は行政主導で整備すべきか、それとも大学や学会が表に立つべきか議論が分かれるところです。私は後者が望ましいと考えていますが、ただ大学だけでは収拾がつかないんです。内科学会も自治体任せにしてしまっている現状があって、最終的に行政でとりまとめをしてくださいという話になって、その調整をしていました。

コロナ禍における医療と行政

新型コロナウィルス感染症の流行後のお仕事についてお聞かせください。

2020年1月に府内でCOVID-19の陽性者が出ます。3月~4月はまだコロナ陽性者は少なかったので、コロナ患者の病院の振り分けを1人で行っていました。そのうち陽性者の増加で振り分けを私1人でこなすことができなくなってきました。それで、3月末に京都府新型コロナウイルス感染症入院医療コントロールセンター(*4)が設置されました。本来京都市と京都府は行政主体として別だけど、緊急事態だということで、府と市が一体で運営するコロナの入院医療コントロールセンターを立ち上げたんですね。健康福祉部の医師2名と事務員2~3名に加えて、多い時で4~5名のサポートを毎日DMAT隊から得て運営しました。

陽性者数が少ない時は全員入院でしたが、患者数が増えるにつれ病床がひっ迫してきます。次の段階として、無症状から軽症の陽性者はホテル療養、症状が出た人は入院という対応でバランスが取れたんだけど、ホテルはそれでもあっという間に埋まりました。地域差もあって、京都市内はいっぱい、南部もいっぱい、でも北部の舞鶴とかはがらがら。さすがに宇治の人を舞鶴には送れないのでそのアンバランスのコントロールがすごく大変でしたね。

お忙しい日々を送られたんですよね。

12月~1月は、入院コントロールがかなり困難な状況でした。健康福祉部には医者が私を含めて3人しかいないため夜中のオンコール(*5)を2人で回していました。自宅療養をされている方が救急車を呼び、かけつけた救急隊から直接電話を受け、受け入れ先の病院を探す業務をしていました。

オンコールを2人で。

それはもうさすがに無理でDMAT隊の人にも順番にオンコールを担当してもらうようにしました。自宅療養中、病状悪化に不安になり救急要請した人の中には必ずしも入院の必要がない人もいるので自宅療養を続けてもらうという判断なども行っていました。今もみなさんそれをやっていると思います。

他に大変だったことはありますか。

行政のやり方に最初は戸惑いました。病院長といったポジションにつくと、医療制度のみならず行政に関わる仕事が増えるので行政のノウハウを知るのは重要です。勉強にもなりましたよ。

ですが、行政も今回のコロナ感染症に関してすごく協力的でした。とにかく医療職をサポートするんだという認識が強くて、医療サイドからの要請とあれば物事を力強く進めてくれましたね。

例えば、PCRセンターをどんどんつくりましたよね。行政の対応は遅すぎるという批判もありましたが、担当の人は相当苦労して実現させていました。場所探してきて人を集めてくる早さには、行政のノウハウがあるなあと。ワクチン接種も最初の頃は、「いつまでに、これだけの人に接種を」という設定目標に対して国からの情報がほとんどない状況では間に合うわけないやんと私も思いましたが、間に合わせましたからね。

コロナ対応で行政は批判されがちでしたが、皆さんすごく頑張っていらしたんですね。

そう。外からみたら何してんねんと思うかもしれないけど、中に入ってはじめて、この人たち体持つのだろうかと思うぐらい非常時対応で激務をこなしていることを知りました。

(*4)京都府新型コロナウイルス感染症入院医療コントロールセンター:2020年3月27日に府庁内に設置。新型コロナ患者の病態を把握するとともに、受け入れ病院・施設の状況も確認し、円滑な入院調整などを行っている。
(*5)オンコール:医療従事者が、患者の急変時や救急搬送時などに、勤務時間外であっても呼ばれればいつでも対応できるように待機していること。

健康福祉部で勤めていた際、西脇京都府知事に付き添ってKBS放送にてCOVID-19対応についてコメントしていた。

再び小児科医に

去年の4月から聖ヨゼフ医療福祉センターの院長になられたんですね。大変なことはありますか。

私立の施設なので、経済的な苦労はあります。が、お金以外はあまりしがらみがなく、やり方によってはいろんなトライができるなあとは思います。聖ヨゼフは福祉センターなんですね。医療制度だけではなく福祉制度とも関係が深い。私は、大学1年生の時びわこ学園という重度心身障害児センターにボランティアに行きましたが、最終的に聖ヨゼフという福祉センターの院長として、近い環境に戻ってきたという感じです。

再び小児科医に戻られて、時代が変わったと思われたことはありますか。

小児科も循環器もどんどん進んで、薬もデバイスも我々が若い頃とは全然違う。絶えず勉強してないといけないと感じています。倫理関係では、先端医療と関連が深い問題について本当にすべての医師が理解しているか危惧するところです。大学病院の安全管理部にいた時、時代に取り残されているのではないかと感じました。高度なことをすればすれほど倫理面や安全面でしっかりしなければいけないのに、未だに追いついていない。

特に倫理観は変わったほうがいいということですか。

倫理観と安全管理ですね。治験や先端医療の倫理は一所懸命議論されていますが、病院倫理や臨床倫理の取り組みは不十分と感じています。現場で看護師さんが倫理面から本当にその看護行為をしていいのか不安を感じた時、その疑問に応えられる組織がない。ある意味、大学の倫理をやっている人たちが医学領域外の新しく出てきた倫理的問題について理解できていなかった、と言えます。胎児診断に関する心理的、哲学的倫理問題を倫理委員会に出しても対象外と言われるんです。昔に比べてだいぶ改善はされていますが、それを専門とするセクションを持つ大学はまだ少ないです。若い人たちにはぜひ現場の悩みを拾うセクションを作ってもらいたいです。

学生へのメッセージ

最後に府立医大の学生と受験生にメッセージをお願いします。

府立医大というのは大学として小さくてコンパクトです。しかし、京都府の医療、行政までを全て大学でカバーしていて、そのような大学は日本全国で他にないと思いますね。仲間意識も強く、そういう意味で今の友人関係は今後も非常に大事になるし、卒業してからもとても大きな力になります。かつ科研費の獲得数も非常に多く、臨床研究も活発です。

他大学で他の専門を勉強している人との交流も広げてほしいですね。趣味でもなんでもいいです。卒業してすぐはあまり役に立たないかもしれませんが、10年15年経つとじわーっときいてくる。そういう繋がりを大切にしながら勉強をしていってくださいというのが私からのエールですね。

あと、さきほど話した1年生の時に参加した重度心身障害児の施設でのボランティアで、当時の5回生から「医学を学ぶ前に看護学を学べ」って言われました。看護とは何かということを、チームリーダーとして医者はまず知らないといけない。含蓄のある言葉だと思い、今でも覚えていますね。また、同じ先輩に「自分の哲学を持て」とも言われました。私自身はこの年になってもまだまだ悩むことも多くありますが…。

大切ですが、難しいことなのですね。本日はありがとうございました。

取材・文:君島 静(医4)

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